概要
幕府が元和3年(1617)に、それまで江戸の市中各所に散在していた遊女屋を、日本橋葺屋町(現在の中央区日本橋人形町付近)に集め、塀で囲って隔離し、公認したことが始まりである(知られざる遊女たちの実像 新吉原遊郭最新研究)。
当時はヨシ(アシ)の茂る地で「葭原」と書いたが、後に縁起のよい字にかえて「吉原」と称した。
明暦3年(1657)の大火で焼けたため浅草に移された。
前者を元吉原といい、後者を新吉原という。
江戸城を擁する日本の首都にあり、なおかつ江戸唯一の公認遊郭ということもあり、高度な教養を備えた大名や旗本、豪商といった人々もここに通った。こうした上級の客に対応するため歌や踊りだけでなく、読み書きから俳句・茶道・華道・香道・書道など、果ては古典に至るまで、高い教養を仕込まれた者もいた。
教養を身につけていると、正式な妻に迎え入れられることもある。大金持ちである彼らに高額の料金を支払ってもらい、身請けしてもらって「いいところの家」に嫁ぐ、いわゆる『玉の輿』が行われていたりもした。
しかし、このような高級遊女はごく一部である。
吉原近辺に大名屋敷が増えたこともあり、幕府は明暦2年(1656年)10月に移転を命じる。翌年正月には明暦の大火が起こった事で予定はズレたものの同年6月に移転は完了した。
元吉原は塀で囲む形で外界と隔離されていたが、新吉原の場合、浮島を作るという形で水による隔離がなされた。
新吉原を囲む掘は「御歯黒溝(おはぐろどぶ)」と呼ばれ、たった一箇所の大門のみが外界との連絡口であった。これには遊女の逃亡を防ぐ目的があった。
2代目歌川広重の『東都新吉原一覧』を見ると、島の淵にあたるところに塀がずらりと立てられているのも確認できる。
この新吉原には時代によって3000人から5000人の遊女がいた。大夫や呼出といった高級遊女は高度な知識を身につけ、自腹で豪華かつハイセンスな意匠を纏い、優れた教養もあって文化の発信者ともなった。この「自腹」というのも曲者で、その購入費のために蓄えを放出し、膨大な稼ぎを目指さざるを得なかった、ということでもある。
18世紀以降になると大衆化・下層化が進んでいく。「遊女大安売り」と叩き売りのような扱いをされ、19世紀になると非道な扱いに耐えかねた遊女たちによる放火事件が頻繁に起こるようになる。
嘉永二年(1849年)の放火事件のさいにとられた調書では、遊女による覚え書きが収められた。そこには腐ったご飯しか食べられず、折檻という暴力を受けるという凄惨な身の上が記録されている。
19世紀とは、海外から一流のエリートたちが来日した時期でもあった。が、彼らの目に遊郭の持つ裏の面は殆ど映らなかった。
身請けに成功して幸せに暮らす者、年季を終えた後に実家に戻ることができた者、彼らはそうした例だけを見て「西洋では、娼婦(売春婦)は身分は低く、卑しい職業・屈辱的な立場に置かれた人と見られていたが、日本においては決してそのようなものではなく、生活手段として市民権を得ている」というような認識を抱いたようである。
彼らの記述については親記事の「遊郭」を参照。来日年度を見れば10年か10数年前の事件すら認識されていないことがわかる。
吉原は明治以降も娼妓(公娼)として運営されていた。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では吉原で火災が発生。「御歯黒溝」に包囲された地形により逃げ場を失った人々は内部にあった弁天池(新吉原花園池)に飛び込み命を落とした。
1926年(大正15年)に震災と火災による490名の死者(市川伊三郎著、新吉原三業組合取締事務所刊『新吉原遊郭略史』によると、後の調査で、そのうち88名が娼妓である事が判明した)を弔うために吉原弁財天本宮(近所にある吉原神社の飛び地境内で「奥宮」にあたる)に観音菩薩像が建立された。弁天池はNTT吉原ビル建設にあたって1959年(昭和34年)に埋め建てられており、吉原弁財天本宮境内の小さな水場にその面影を残すのみとなっている。「御歯黒溝」もまた、関東大震災後に全て埋め立てられた。
昭和32年(1957)4月1日に売春防止法が施行されたことによって、歴史にひとまず幕を下ろし、表向きは高級ソープランドを始めとする性風俗店や、連れ込み宿(いわゆるラブホテル)に変身。
現在の吉原は都内最大の風俗街へと変化している。
別名・表記揺れ
吉原遊郭が登場する作品
関連タグ
妓楼 / 遊女屋 / 傾城屋 張見世 置屋 茶屋 / 引手茶屋
煙草の煙を吹きかける 男が男に煙草の煙を吹きかける 煙管の雨が降るようだ