歌川広重
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うたかわひろしげ
歌川広重は、浮世絵の号。5代目まで存在した。この項目ではその中ではもっとも有名な初代を主として解説する。
この人物は5人存在する。最初にすべての人物を簡単に解説する。
- 初代……安藤鉄蔵、この人物の浮世絵は日本のみならず海外においても影響を与えた(後述)。
- 二代目……森田鎮平、号を歌川重宣といい、初代の養女の最初の亭主。外国輸出用の茶箱のラベル絵で有名となったため「茶箱広重」としても知られる。「喜齋立祥」の号を用いている。
- 三代目……後藤寅吉、「赤絵」と呼ばれる開化絵(文明開化を描いた浮世絵)を書いたことで知られる。
- 四代目……菊池貴一郎、別名「蘆の葉散人」二代目の門人とも。浮世絵自体はわずかな作品しか残していないが、『江戸府内絵本風俗往来』など、江戸に関する文献を別名で発表している。
- 五代目……菊池寅三、四代目の息子。なお、ほとんど作品を残していないのは時代の変化及び四代目同様書の世界で生きていたためと推測される。
この人物は寛政9年生まれであり、安政5年に数え年65歳で死去した。
もともとの本業は火消同心であったが、家督を継いでから二年後に歌川豊広に弟子入り、その11年後に親戚に火消同心の職を渡し、正式にやめたのは職をついでから23年後のことであった。
当初は役者絵(歌舞伎役者や舞台などを描いた浮世絵、今でいうブロマイドのようなもの)や美人画(女性の容姿や内面の美しさ、いわゆる女性美を描く浮世絵や絵画、今でいうピンナップとか)を書いていたが、師匠の没後風景画や花鳥画を主として描くようになった。また、その頃一幽斎、一立齋などの号を用いている。
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