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娼妓封傅

けいせいでいりきって

娼妓封傅は、遊郭街において遊女が街から出入りするための外出許可証である切手。
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概要編集

遊郭街において、遊女が街の外に出入りする際に使用していた、外出許可証となる遊女出入り切手である。

江戸時代の医者蘭学者で、戯作者・狂歌師としても知られる森島中良が著した『寸錦雑綴(すんきんざってつ)』において、吉原の遊女が街の大門を出入りする際に使用されていたことが記載されており、実際の切手の見本も描かれてある。


詳細編集

江戸時代後期の風俗史家である喜多川守貞の著書で、京都大阪江戸の風俗の違いを記録した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、江戸と関西遊郭の違いも書かれているのだが、それによれば関西の遊郭街は遊女が門番にお金を渡して自由に街を出入りできたが、吉原では遊女の遊郭街からの出入りが許されていないとある。


しかし上述したように、森島中良の『寸錦雑綴(すんきんざってつ)』には、吉原の遊女は街の大門を出入りする際に上述した遊女出入り切手が使用されていたことが記されており、切手の見本も記載されている。


見本によれば切手は横長の用紙で、左端に縦線が引いてあり割印が押されていて今で言う遊園地などの入場券のようになっており、門番は割印を割るように線に沿って千切り、小さい方の半券を遊女に渡して外に出す。

門番は大きい方の半券を保管して、外出していた遊女が帰ってきたら、互いの大小の半券が合致するか確認する。

大きい方の半券には、外出する遊女の名前と所属する遊郭の名称と外出理由が詳細に書かれており、小さい方の半券には切手の種類と何時に帰宅するかが書かれてある。


ちなみに寸錦雑綴に見本として載せられている遊女出入り切手には、病気になった遊女を医者に連れていくためと書かれてあるが、江戸時代後期の明和2年から天保9年にかけて刊行された川柳集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』において、吉原遊郭について詠った川柳に、


大門を 出る病人は 百ひとつ


というものがある。

解釈としては「吉原の大門を出る病人は瀕死の状態で医者に行くから、再び廓にもどってこれる遊女は、百人に一人くらいしかいない」或いは「みんな仮病を使って出かけるので、本当に医者に行く遊女は百人に一人くらいしかいない」という二つの解釈ができが、川柳というのは思わずニヤリとしてしまう皮肉な笑いが特徴であり、誹風柳多留に集められている吉原関連の川柳は男と女の人情喜劇が詠われたもので、そこから考察すると重苦しい前者の理由とは考えにくく、後者の理由と見るのが正解だろう。



更に幕末に近い嘉永6年の『新吉原規定證文(しんよしわらきじょうしょうもん)』には、吉原の名主が遊女の外出について訴えている記録があり、それによれば上述した遊女を街から出さないという決まりが殆ど守られていなかった(みんな仮病を使って外出しまくってた)ため、評定所が吉原の名主に「もっと厳重にやってくれ」と言い聞かせていたという。


また、同時に名主は「毎年春秋に、遠足に連れて行ってるいるので、それはこれまで通りにしていただけませんか」とお願いもしている。

実は吉原では、暮らしている女性たちのために毎年春秋に遠足が行われており、春は桜の名所である寛永寺飛鳥山へ、秋には紅葉狩りなどに行っていたという。

そうして吉原の遊女たちが出掛ける様子を江戸の住民たちも目撃しており、上述した誹風柳多留にもその様子を詠った川柳がある。


町風に 化けて一日 気をはらし

観音へ 女郎の出来が ぞうろぞうろ


この川柳では遊女が町方の娘のフリをして外出している様子が詠われているが、遊女は町方の娘たちより色白であったため、どうしても人目を引いてしまい町民たちにもバレていたようである。


関連タグ編集

遊郭 遊女

吉原遊郭

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