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遊女

ゆうじょまたはあそびめ

性的サービスで客をもてなすことを職業とする女性。
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遊女とは、一般に性的サービスで客をもてなすことを生業とする女性のことを指す。「娼妓」とも言う。

ただし必ずしも売春しているとは限らない。遊女の格によっては、踊りを披露したり、客の話し相手になったりすることで疑似恋愛を楽しませ、馴染みの間柄となった時点で床入りとなるのが通例であった。
そういった意味では売春婦よりも、現在のホステスに近い側面がある。

代表的な遊女の階級

新造付き呼出(しんぞうつきよびだし)
最高級の遊女で、張見世(ショーウィンドウでの顔出し)をせず、仲の町を道中する権利を持つ。揚代(価格)は一両一分で、現在の約十万円。

・昼三(ちゅうさん)
張見世をしない見世昼三・張見世をする平昼三など、いろいろな種類がある。揚代は三分で、約六万円。

・付廻(つけまわし)
これもいろいろ種類があり、のち座敷持と同義になった。揚代は二分で、約四万円。ここまでの遊女が「花魁」と呼ばれた。

・座敷持(ざしきもち)
自分専用の座敷(客用座敷と寝室の二部屋)を持つ。揚代は二分と一分(約二万円)とがあった。

・部屋持(へやもち)
自分専用の部屋(寝室のみの一部屋)を持つ。揚代は二分ないし一分。大見世では最下級だが、小見世では上妓。

・局女郎(つぼねじょろう)
最下級の遊女で、揚代はニ朱(約五千円)が最高。もっと安い場合もあった。

遊女見習い・遊女を引退した者など

禿(かむろ)
遊女屋に売られて間もない、十歳前後の少女。おもに花魁について、遊郭の作法や芸事を習いながら雑用をこなした。花魁ひとりにつきふたりの禿がつく。

・振袖新造(ふりそでしんぞう)
略して振新・もしくは単に新造とも。禿上がりの見習い遊女で、客は取らずに花魁の身の回りの世話や客が立て込んだときの名代(代理)などに立った。花魁ひとりに対し、ひとりないしふたりついた。

・番頭新造(ばんとうしんぞう)
略して番新。年季明けの遊女がなるものが多く、三十歳以上の女が大半。これも客は取らず花魁の専属マネージャーとして、客の人柄などで良し悪しを判断したり、あしらい方を教えたりする。花魁ひとりに対しひとりかそれ以上ついた。

・遣手(やりて)
遊女屋が抱えるすべての遊女の総監督者。四十歳前後の遊女出身の女がなった。往々にして厳しく取り締まるため、遊女たちから恐れられていた。

概要

日本での始まりは神仏の前で技芸を奉納する女性たちの登場で、これが次第に貴族文化の中で舞踊遊芸(楽器演奏や歌詠み)などで客をもてなすことを主とする芸能職となる。社寺に属さない巫女たちは諸国を渡り歩いて遊芸を披露するかたわら、売春行為を行っていた。

近世になると遊郭が登場し、遊女たちはそこに一か所に集められて管理されるようになる。最も有名なのは江戸吉原遊郭であり、そこの高級遊女である花魁ともなれば、一晩の戯れで名家が傾く大金を動かすほどであった。

遊女となる女性は幼い頃に女衒によって斡旋されて7~8歳くらいで色町に連れて来られる。そこで先輩となる遊女に付いて禿(かむろ)として働き、やがて新造となって芸を教えられ、姉さん女郎の代理で客の相手をするようになる。

そして一定の年齢(16~17歳)になると遊女として客を取るようになる。なおその初夜水揚げ)は相当な高額であり、裕福かつ遊び慣れた男が買うものであった。

禿になれるほど幼くない場合は最初から新造として芸や性技を学ぶ。
水揚げと同様に一定の年齢(平均して27歳)に達すると年季が明ける。その後は色町を出たり、置屋に残って後進の指導をしたり遣手新造)、置屋から出て切見世などで売春を続けたりといった選択肢があった。

なお、年季の途中でも『いいひと』ができ、その男が置屋に相当額を支払えば『身請け(遊女の買い取り)』をすることができる。身請けされた遊女は大名や豪商の後妻になる事が多かった。
身請けの代金は遊女になったときの前借金の残額と揚屋への手付金などで、高級な揚屋ではさらに身請け披露の費用、ご祝儀、駕篭代、配り物代なども必要となった。
局女郎では4~50両、太夫ともなれば千両はかかる。
身請けができるほど裕福でない場合は『足抜け(脱走、駆け落ち)』をする者もあったが、発覚した場合には男は処刑され、遊女は過酷な折檻を受けることになる。

なお、年季が明ける年齢は27歳であるが、遊廓で一生を終える遊女の平均寿命は23歳程度であった。身請けされたり駆け落ちに成功した者は除く)これは避妊や医療技術が未発達な時代であり、妊娠およびそれに伴う出産または堕胎性病が非常に危険なものだったからである。吉原では死亡した遊女は近くにある浄閑寺で供養された。
(この際に投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺に文字通り投げ込まれたという俗説があるが、それを裏付ける古文書などはない)
遊女から生まれた子は、娘なら遊女、男なら妓楼で働く若衆として育てられた。

ちなみに遊女全般に言えることであるが、困窮した家族を救うために自らを売って金を作ったという見方が強く、現代の売春婦のようなマイナス感情はあまりなく、むしろ親孝行な立派な娘として一種の敬意を払われていたとされる。

なお上記の理由で遊女となる女性は様々な地方から集められたため、出身地の訛りを隠すために「ありんす」調の『廓言葉(さとことば。廓詞、里詞、花魁詞とも)』を使用するよう指導された。廓言葉は見世ごとに少しずつ異なり、聞く者が聞けばどこの見世の遊女かが判ったという。

一説によると、同時に存在した京都島原遊郭では売春行為はサービスの内に入っておらず、もっぱら技芸でもてなしたという。そのため、島原遊郭で働く女性はあくまで芸妓といわれ、今でも花街舞妓(まいこ)・芸妓(げいこ)という形で残っている。
しかし資料によっては、島原の遊女も春をひさいでいたという説もあり、ハッキリとしていない。

明治になると娼妓解放令が出され、人身売買が禁止されるが、売春はなお公然と行われていた。遊廓岡場所から発展した「赤線」「青線」の隆盛は、昭和30年代に売春禁止法が施行されるまで続いた。

海外の著名人の評価

来日した海外の著名な学者や要人たちは、日本遊郭について、以下のように語っている。

「貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに数年契約更新することも可能である。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどわれわれヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すときに感じる程度の傷み(いたみ)しか感じない。なぜなら売春婦は、日本では、社会的身分として必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴うものではなく、他の職業とくらべてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段としてみなされているからである。娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは芸者の年季を勤めあげたあと、生家に戻って結婚することも、ごく普通に行われる」(慶応元年(1865年)来日、ドイツ考古学者ハインリッヒ・シュリーマン』博士)

「彼女(遊女)たちは消すことのできぬ烙印が押されるようなこともなく、したがって結婚もできるし、そしてまた実際にしばしば結婚するらしい。夫の方では、このような婦人の方が教育があり芸のたしなみもあるというので、普通の婦人と結婚するよりも好ましいわけである」(安政6年(1859年)来日、イギリス公使『ラザフォード・オールコック)

「日本のゲーコは、ほかの国の娼婦とはちがい、自分が堕落しているという意識を持っていないのが長所である。日本人の概念からいえば、ゲーコの仕事はほかの人間と同じくパンを得るための一手段にすぎず、(西洋の)一部の著作家が主張するように尊敬されるべき仕事ではないにしろ、日本人の道徳、いや不道徳観念からいって、少なくとも軽視すべき仕事ではない。子供を養えない貧しい家庭は、金銭を受け取るのと引換に子供たちを茶屋の主人に預けても別に恥じ入ったりするようなことはないし、家にいるより子供たちがいいものを食べられ、いいものを着られると確信している」(慶応2年(1866年)来日フランス海軍エドゥアルド・スエンソン』士官

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女衒 水揚げ / 初花 花魁道中 身請け
花魁 / おいらん 太夫 格子 新造 かむろ

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外部リンク

遊女:wikipedia
籬の花 遊女の階級について引用

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