概要
当時、幕府が公認していた吉原は昼間しか営業しておらず、遊興費も高かったため、それに代わって庶民から高い人気を得た。
しかし幕府は、風紀の乱れを防ぎ、「公許」の吉原を守るために湯女を制限・禁止しようとした。
寛永14年(1637)には、「風呂屋に湯女を三人以上おいてはいけない」との制限令が、また正保2年(1645)には、「風呂屋に女をおき、客を宿泊させてはいけない」との禁止令が出されている。
そのため、湯女は表向きは「垢かきや髪洗い、茶菓・酒の販売のために勤めている」という形をとり、事実上は性的なサービスを行っていた。
余談
かつてトルコ風呂(現在のソープランド)が、トルコからの苦情により改名を迫られた際、新名称の候補として「湯女風呂」が最後まで挙がっていたといわれている。