概要
宝暦8年(1759年)12月27日、田安宗武の七男にして8代将軍吉宗の孫として生まれる。幼名は賢丸。
1774年(安永3)奥州白河藩主松平定邦の養子から白河藩11万石の藩主となり、従四位下越中守に昇進した。
天明の大飢饉の際、定信自ら率先して倹約を重んじ、食糧の緊急輸送、備荒貯蓄や人口の増加、あるいは殖産興業を促すなど、藩財政の立て直しや領民生活の安定化を図り、崩壊に瀕した藩財政を建て直し名君と称された。
天明7年(1787年)老中首座となり、前老中田沼意次失脚のあとをうけて、御三家(尤も尾張家は一親藩に堕したため紀州と水戸)および一橋治済(家斉の父)の推挙により老中首座(筆頭)となり、侍従に任じられ、幕政の建て直しをはかり、いわゆる寛政の改革に着手した。
まず直面したのは、凶作の連続による年貢収入の減少と飢饉対策のため幕府の蓄え金が底を突き、しかも100万両もの収入不足が見込まれるという、幕府財政の危機的な状況であった。
この財政を再建するため、厳しい倹約令による財政緊縮政策がとられ、大名から百姓・町人にいたるまで厳しい倹約が要求された。大奥の経骰を3分の2に減らしたのみならず、朝廷にも経費の節減を求めたほど、徹底したものであった。
また、住所不定で大小の刀ももてない御家人が現れるほど経済的に困窮した旗本・御家人を救済するため、寛政元年(1789年)に棄捐令(徳政令)が出された。これは[商人]]による貸し渋りを一時期招いたが、年越し前に終結し三ヵ月で落ち着いた。昨今では、棄捐令は一時しのぎの場当たりな政策ではなく、一定間隔で行われる商人への一括の課税であり、同時に豪商に退蔵される貨幣を吐き出させ、貨幣供給量を増やすことで経済の停滞を防ぎ経済活性化する富の再分配の施策であったという説もある。
また、定信は、凶作でも飢饉にならないように食糧の備蓄をはかった。
諸大名には1万石につき50石を5年間にわたり領内に備蓄させ、さらに各地に社倉・義倉を設けさせた。天領の農村には郷蔵、直轄都市にも米を貯蔵する蔵を設けたが、江戸では町入用(1785〜89年の平均で1年に15万5140両)の節約分(3万7000両)の70%を積み立てる七分積金(しちぶつみきん)の制度をつくり、江戸町会所を設けて、米と金を蓄えた。蓄えた米や金は、飢饉、災害、風邪の流行などのときに困窮した貧民の救済にあてられ、打ちこわしなどの騒動を未然に防ぐことに使われた。
しかし、田沼時代と比べてあまりにも厳しい政治は後に「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄されるようになり、内部でも多くの反対にあう中で、後の失脚に繋がる「尊号一件」が発生する。
この事件は寛政3年(1791年) 第119代の光格天皇は先代の後桃園天皇が崩御した際に急遽養子なって即位した人物で、実父は典仁親王であった。しかし、自らが養子で天皇になった結果、実父より位が上がってしまい、更には禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下の立場になる事に天皇は不満を抱いていた。そこで、典仁親王に「太上天皇」の尊号を送る事を望んで幕府に相談を行った。第11代将軍徳川家斉も実父の一橋治済に「大御所」の称号を贈る事を望んでいたため、光格天皇の御心を察して理解を示したという。
しかし、定信は前例無き事として反対した。実際には皇位についてない後高倉院や後崇光院に尊号が送られた事例は存在するのだが、定信は承知の上だったが、非常事態の産物で先例ではないと主張。結果、江戸時代最大の朝廷紛議に発展してしまう。
天皇側は尊号宣下を強行しようとしたが、定信は公家の処分を断行するという強行策に出たため、結局は朝廷側は尊号宣下を断念し、典仁親王に1,000石の加増と待遇改善を行う事で終結した。
この一件により定信は家斉が望んでいた治済に「大御所」の称号を贈る件も同様に拒否せざるを得なくなったため、家斉から盛大に顰蹙を買ってしまう事になる。もともと定信の老中就任も本来の出世コースを飛ばしての特例であり、本人の権力基盤は脆弱だったため、事実上孤立に至ったとされる。
寛政5年 (1793年) 老中を辞し、以後は藩政に専念した。
ロシア対策としては北国郡代を新設して北方の防備にあたらせる計画が立てられた。またオランダの協力の元洋式軍艦の製造も計画されていたが、彼の老中辞職とともに実現しなかった。
寛政の改革の成果については現代では賛否が分かれている。また昨今の田沼意次の再評価の煽りを受け、定信に関しては過小評価がされている傾向がある。
人物
定信は儒教に傾倒した偏屈な堅物という印象を持たれているが、実は、若い頃に大名をおちょくった戯作を書いていたという江戸時代の厨二病患者。
本当に「堅物な武士」であったのなら手に取ることすらないだろう源氏物語を愛読しており、なんと7回も書写していたりする。
庶民文化にも相当入れ込んでおり、自分で戯作本まで書いている。当時、庶民のものと価値の低かった浮世絵を愛蔵しており、後にかつて規制処分にした山東京伝に自らの浮世絵コレクションの詞書(前書き)を書いてもらった時にはたいそう大喜びしたらしい(ただのファンじゃねーか!)。
隠居後に山東京伝と北尾政美に吉原の情景を描いた絵巻物(それエロ本では)を作らせていたり、などなど。率直に言ってしまえば、この人、若いころも年をとってからも俗文学大好きな江戸時代の頭の良いエリートなお前らである。
ただ、私心を廃することを第一とし自己抑制に優れているため、政治に対しては自己の趣味を無視して堅物な政策を推し進めたので堅物だと誤解されているわけである。
また、通説の中の松平定信といえば朱子学狂いとの印象が強いが、実際の定信の主義思想は老中に就任する5年前に書かれた「修身録」にて、「朱子学は理屈が先に立ち、学ぶと偏屈に陥る」「学問の流儀は何でもよい。どの流儀にもいいところ、悪いところがあり、学ぶ側がいいと思えばいい。流儀にこだわるのは馬鹿の詮索だ」などとむしろ朱子学に批判的な意見を述べている。このことから、朱子学推進はあくまで官僚の統制に利用しただけで、むしろ本人の主義思想は朱子学ではなく、当時流行していた折衷学派の思想に近く、通説における朱子学を盲信する人物像と乖離した実像が見てとれる。
蘭学に関しても、自身の趣味として洋画を収集しており、蘭学者を雇って蘭書の翻訳事業をさせたり亜欧堂田善のパトロンになって洋式銅版画を刷ったりなどと、世間の蘭学規制者という印象と違い、実像は大の蘭学党と言ってよい。
トランペットの製造や日本最初の蘭日辞典の製作、ガラス製空気ポンプの製造、さらにそれを使った生き物への酸素実験などと精力的に活動した記録が残っている。また、彼の意思を継いだ寛政の遺老達の手で洋書の翻訳機関である蛮書和解御用方が作られ海外技術の獲得に邁進していった。
えっ? 某漫画の人物像と違う? あの漫画の定信って愚民政策したとか嘘八百つきすぎですよ?(むしろ、庶民教育の学校まで建てている)
評価
寛政の改革は、田沼時代末期の危機的な状況を乗り切り、一時的に幕政を引き締め、幕府財政の均衡を回復して幕府の権威を高めた。しかし、強すぎる言論・文化統制による文化停滞や、きつすぎる緊縮政策による経済鈍化に対する批判もまた根強い。だが、定信が定めた福祉政策によって以後、大規模な食糧危機が江戸時代においておこることはなく、教育政策においても、定信の時代以降勉学ができるものが等しく出世できるようになり、「寛政以来、幕府の要職者は卑しい身分からの者ばかりで武功の家の者は少なくなった」と語られるようになり、幕末に活躍した幕府官僚達は低い身分から実力で伸し上がってきた実力者が多かった。また、定信が述べた大政委任論は後に幕末にて大政奉還に繋がることとなる。
なお、老中に就任すると、祖父吉宗の享保の改革を理想としてかかげ、田沼の政治を「悪政」と厳しく断罪したが、定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、反田沼派からの支持を得る為のポーズだったとされる。実際のところは田沼時代の経済政策をほぼ継承した。幕府が改革において講じた経済政策は、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった。株仲間をことごとく解散させたなる通説とは異なり、定信は大飢饉の際、米統制に違反した一部を廃止したのみで大部分の株仲間を存続させているし、南鐐二朱判に関しては、田沼の無節操な改鋳による物価高騰の是正のために二朱銀の一部を元の丁銀に改鋳しなおしただけであり、むしろ、あまり通用していなかった西日本の各国でも使うよう強制することで田沼の時代よりも定信の時代に二朱銀の使用が広まることとなった。
例の短歌
「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という有名な狂歌であるが、単純に定信を揶揄しただけのものではない。
魚は、水中の栄養素が少なければ酸欠や飢餓などで死滅してしまうため、「透き通るような水」は毒である可能性もある(有名な赤潮などは海中の過剰な栄養が原因となってプランクトンが大量発生したものである)。現代でも汚染された川や海だけでなく、逆に綺麗過ぎることが問題になることがある。
この事は古代から知られており、短歌の元となった「水清ければ魚棲まず」という諺は孔子の時代に作られたとされる。この諺も、魚が清すぎる水には住まないように「人柄が高潔過ぎると、かえって人は近付かない」と揶揄したものである。
したがってこの短歌は、「白河のような清らかな流れでは栄養が足りず魚も住みにくい、元の濁った田んぼや沼の水の方が、魚も恋しいだろう」という意味と「白河藩主・定信の治世は清廉を追求し過ぎて辛い、元の田沼意次時代の、賄賂などで濁ってはいたが盛んな時代が懐かしいなあ」という意味が掛かっているわけであり、掛詞という和歌の基本を踏まえた歌である。
こんな揶揄一つにも当時の人間の教養が垣間見えるとも言えよう。もちろん、上述の通り実際の定信の治世には様々な見解があり、一概に短歌に揶揄された通りとも言えないわけであるが、たまたま定信の領地と田沼の苗字の意味合いによって上手いこと出来てしまったのも、イメージ定着の理由であろう。
さらに言えば、寛政6年、定信の帰国が予定される中で、尾張・水戸両家は老中、松平信明、本多忠籌に対し、下々が定信を惜しんでおり人心を落ち着かせるため御用部屋にて政治に関与しているように装ったほうが将軍のためではないかと語っている。このことから、定信の政治は狂歌が歌われたとおり批判があったのは事実だが、失脚によって人心の動揺が危惧される程の支持も当時あったことも見て取れ、世間が批判一辺倒であったという解釈は間違いと言える。
余談
時代小説等のフィクションにおいては、清廉潔白で高潔な人物あるが、それゆえに世俗に生きる民衆を顧みないといったキャラ付けがされる傾向にある。
特に反田沼という一面が強調され、将軍の孫である自身を白河松平家へ養子に出し、将軍になる未来を奪ったという恨みを抱いていることが多い。田沼が善玉として描かれる作品ではなおさらである。