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徳川家斉

とくがわいえなり

江戸幕府第11代征夷大将軍 在任記録50年は江戸幕府ばかりか鎌倉幕府や室町幕府も含めた全ての将軍の中で最長を誇る。
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徳川家斉とは江戸幕府第11代征夷大将軍である。


概説編集

安永2年(1773年)10月5日〜天保12年(1841年)閏1月7日。

将軍在任期間は50年と歴代征夷大将軍で最長。

将軍を退いた後も4年間大御所として生涯実権を握り続けた。


経歴編集

徳川御三卿の一つである一橋徳川家出身。

一橋家2代目当主である徳川治済の長男。母は側室の丸山氏。

10代将軍徳川家治の嫡子・徳川家基が夭折した為に家治の養子となり、15歳で将軍に就任した。

治済自身がかなり曰く付きの人物だったため「家基の死は何かあったのではないか?」と疑われることもある。ただし、家斉自身は父に家基が謀殺されたという噂を相当気に病んでいたらしく、家基の命日には自らや幕府高官の若年寄を参詣させるなど、常に敬意を払うことを怠らなかった。

若くして将軍となったため、政治は老中たち中枢の幕臣に委ねられ、家斉が成長したのちも執政は幕臣たちに任せて、自身は彼らの政策に判を押すのみという状態が形態化していった。


まず家治時代に権勢を振るった老中田沼意次を罷免し、名君と名高い陸奥白河藩主だった松平定信(田安徳川家出身)を老中首座に抜擢し、定信主導による「寛政の改革」を施行した。これによって田沼時代の闇である贈収賄の悪習は抑制された。しかしあまりに厳粛な取り締まりから、徐々に非難を浴びることとなった。これに同調するように家斉と定信の関係に溝が生まれ、老中首座から罷免している。しかしその代わりに老中首座に着いたのは定信の右腕で「寛永の遺老」の一人であった松平信明であり、その後も定信の改革路線は継承された。


ところが信明が病に倒れると、側用人の沼津藩主水野忠成が専横するようになり、かつて禁じた贈収賄を公認するようになる。さらに自身は贅沢三昧に興じ、「異国船打払令」を発して軍費を増加させ、財政破綻を招いてしまう。この立て直しに貨幣改鋳を乱発し、経済混乱を招いた。天保5年に忠成の後任として浜松藩主水野忠邦が老中首座となるも、実際は家斉肝煎りの側近である林忠英らに主導させ、何の改正もさせず側近政治を続行させた。


晩年に次男・徳川家慶を後任にするが、ここでも家慶の執政に口を挟んで実権を握り続けた。

天保12年(1841年)閏1月に死去。享年69。

誰にも看取られず、侍医長さえ席を離した間での侘しい死に様であった。


人物編集

史上もっとも子沢山の将軍といわれ53人の子を設けた記録がある(ただし当時の医療水準は低かったので半分くらいは夭折している)。それだけの子宝を儲けただけに、側室に置いた愛妾特定可能な範囲で16人は判明しており、これ以上になる可能性さえ考えられている。


同時にかなりの健康オタクで、食卓には生姜を欠かさず、「白牛酪」という今でいうミルクキャラメルのようなものを常食していた。オットセイ陰茎の干物を煎じて精力増強剤として服用するなど、特に男性としての健康にはかなり気を使ったという。これらは将軍として江戸に向かう際、「子女を多く儲けて血を絶やさないように」という祖父・徳川宗尹以来の一橋家の訓戒に由来するもので、単に好色だったからというだけではない。


歴代将軍の中でも大変な親孝行な人物であった。父・治済を終生大切にした事が知られるが、治済に大御所の尊号を奉ろうとしたことが定信との決定的な破綻を招いた。為政者としては正直な話、暗君と言い得るが、本人の性格は社交的かつ寛容な人格者であった。


評価編集

執政は幕臣頼みで自らは動かず、財政は定信と信明が苦心してせっかく立て直したものを使い倒した挙げ句に収賄や汚職を黙認し、将軍引退後も実権を握って専横するなど、かなりやりたい放題していた。また、正室・茂姫の実父で「高輪下馬将軍」とあだ名された薩摩藩主・島津重豪(斉彬久光の曾祖父)や寵愛した側室・お美代の方(専行院)の養父・中野清成が権勢を奮った。真偽は不明だが専行院自身も家慶の世子・徳川家定が病弱であることに目を付け、自分の孫に当たる加賀藩世子の前田慶寧(のち13代藩主)を継嗣にし家斉の遺言書を、慶寧を家定の養子として家定後継の将軍にするという内容に偽造したとされる。また大奥女中たちと智泉院の僧侶たちの密会事件である「智泉院事件」が発生するなど大奥の規律も乱れていた。


とはいえ彼が権力を握っていた期間は江戸文化の絶頂期であり、民衆文化として化政時代が華やいだ時期と重なる。つまりどれだけ将軍が暗愚だろうと国勢が安定したほど国力も充実していた時期と言え、家斉の勝手気ままな将軍ぶりも、この時代だからこそ許容できたといえる。


ただし、彼の晩年には天保の大飢饉が発生し、大坂大塩平八郎越後柏崎では生田万が反乱を起こした。そしてアヘン戦争など帝国主義の荒波が極東にも及び始めた。彼の弛緩した施政は幕府崩壊の呼び水として様々な波乱を巻き起こし、幕末から明治維新への大きなうねりを巻き起こす切っ掛けとなってしまった。


関連タグ編集

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