徳川家斉
とくがわいえなり
先代の嫡子が夭折した為に御三卿のひとつ一橋家から養子となり、15歳で将軍になった人物。
その為、「嫡子徳川家基の死は何かあったのではないか?」と疑われることもある。ただし、家斉自身は父に家基が謀殺されたという噂を相当気に病んでいたらしく、家基の命日には自らや幕府高官の若年寄を参詣させるなど、常に敬意を払うことを怠らなかった。
若くして将軍となったため、政治は老中たち中枢の幕臣に委ねられ、家斉が成長したのちも執政は幕臣たちに任せて、自身は彼らの政策に判を押すのみという状態が形態化していった。
まず先代・徳川家治時代に権勢を振るった老中・田沼意次を罷免し、田安家→奥州白河松平藩から名君と名高い松平定信を老中首座に抜擢し、定信主導による「寛政の改革」を施行した。これによって田沼時代の闇である贈収賄の悪習は抑制された。しかしあまりに厳粛な取り締まりから、徐々に非難を浴びることとなった。これに同調するように家斉と定信の関係に溝が生まれ、老中首座から罷免している。しかしその代わりに老中首座に着いたのは定信の右腕であった松平信明であり、その後も定信の改革路線は継承された。
ところが信明が病に倒れると、側用人の水野忠成が専横するようになり、かつて禁じた贈収賄を公認するようになる。さらに自身は贅沢三昧に興じ、「異国船打払令」を発して軍費を増加させ、財政破綻を招いてしまう。この立て直しに貨幣改鋳を乱発し、経済混乱を招いた。天保5年に忠成の後任として水野忠邦が老中首座となるも、実際は家斉肝煎りの側近である林忠英らに主導させ、何の改正もさせず側近政治を続行させた。
晩年に次男・家慶を後任にするが、ここでも家慶の執政に口を挟んで実権を握り続けた。
天保12年(1841年)閏1月7日に死去。
誰にも看取られず、侍医長さえ席を離した間での侘しい死に様であった。
史上もっとも子沢山の将軍といわれ53人の子を設けた記録がある(ただし当時の医療水準は低かったので半分くらいは夭折している)。それだけの子宝を儲けただけに、側室に置いた愛妾も特定可能な範囲で16人は判明しており、これ以上になる可能性さえ考えられている。
同時にかなりの健康オタクで、食卓には生姜を欠かさず、「白牛酪」という今でいうミルクキャラメルのようなものを常食していた。オットセイの陰茎の干物を煎じて精力増強剤として服用するなど、特に男性としての健康にはかなり気を使ったという。これらは将軍として江戸に向かう際、「子女を多く儲けて血を絶やさないように」と一橋家から訓戒されたことに由来するもので、単に好色だったからという訳ではない。
歴代将軍の中でも大変な親孝行な人物であったとされ、父を終生大切にした事が知られている。また本人の性格は社交的かつ寛容な人格者だった。
為政者としては正直な話、落第点と言い得る。
執政は幕臣頼みで自らは動かず、財政は定信と信明が苦心してせっかく立て直したものを使い倒した挙げ句に収賄や汚職を黙認し、将軍引退後も実権を握って専横するなど、かなりやりたい放題していた。また、智泉院事件など寵愛した側室専行院やその実父や養父による数々の事件や専横も許してしまっている。事実では定かではないが、専行院は12代将軍徳川家慶を将軍から引きずり下ろすために彼女の孫である前田慶寧を将軍家の継嗣に挿げ替えようと画策したとまで言われる。
同時に彼が権力を握っていた期間は江戸文化の絶頂期であり、民衆文化として化政文化が華やいだ時期と重なる。つまりどれだけ将軍が暗愚だろうと国勢が安定したほど国力も充実していた時期と言え、家斉の勝手気ままな将軍ぶりも、この時代だからこそ許容できたといえる。
ただし、彼の晩年には天保の大飢饉と大塩平八郎の乱が勃発。アヘン戦争など帝国主義の荒波が極東にも及び始めた。彼の弛緩した施政は幕府崩壊の呼び水として様々な波乱を巻き起こし、幕末から明治維新への大きなうねりを巻き起こす切っ掛けとなってしまった。
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