概要
生没年 寛政5年(1793年)~嘉永6年(1853年)
第11代・徳川家斉の次男として生まれ、天保8年(1837年)に将軍職を継承するも、天保12年(1841年)に父・家斉が死去するまで実権を握ることはできなかった(大御所時代)。
父・家斉の将軍在位は50年に及び、正室・茂姫の父である薩摩藩主・島津重豪や側室の父たちが権勢をふるったほか、40人近い側室と55人の子女を養うことと、養子・養女として押しつけることにも多額の費用を要して幕府財政を逼迫させるるなど乱脈の極みにあった。
天保の改革
父の死後、家慶は水野忠邦を老中首座に任じて綱紀粛正を図り、貨幣改鋳も行われたが、幕府財政の倹約にのみ目を向けたわけでなく、庶民の楽しみである落語や歌舞伎・芝居から浮世絵・書物に至るまで規制の対象となった。そればかりか往来での将棋や遊び、祭り、銭湯の値段や豆腐の大きさまで細かく定めて取り締まったため、江戸の街は深刻な不況に陥った。
また、この時代、凶作と年貢の重さから農地を捨てて逃げていた農民が多く出たため、江戸の人口爆発と農村の荒廃を防止するため人返しの法が定められ、積極的に農村に移した。
物価の高騰に対しては株仲間の解散で対応しようとしたが、効果はなかったばかりでなく、既存の流通網に痛撃を与えてしまい、品不足によりさらなる高騰を招いてしまった。上記の改革と合わせて庶民の評判は悪く、怨嗟の声が広まっていくばかりだった。
天保14年(1843年)、幕府直轄領を増やそうと同一基準で検地を行い、後述する対外対策として江戸近郊や大阪を幕府直轄とする「上知令」が実施された。これは江戸や大阪全域を直轄として外国勢力との武力衝突時の防衛体制を整える下準備でもあった。しかし、「三代様までの世なら通じただろう」と揶揄される程の強引な政策で、実際に大名や旗本、転封による借財の貸し倒れを恐れる商人や富農、更には他の幕閣からも批判の声が上がり官民双方の猛反発を見た家慶は水野忠邦に直接撤回命令を下した。閏9月に忠邦は失脚、「天保の改革」は失敗に終わった。
黒船来航
この間、洋式帆船が日本近海に出没する報告が各地から寄せられ、欧米列強から開国を要求される事態が頻発していた。
天保11年(1841年)、「アヘン戦争」が勃発し、東アジアの大国・清がイギリスに敗北したことを知った幕府は出没する欧米の艦船に食料や燃料を与えることになった。
水野の失脚後、幕府は阿部正弘を老中首座とし、財政改革と対外政策にあたることとなる。
嘉永6年(1853年)、ペリー提督率いるアメリカ艦船4隻が浦賀沖に現れる。ペリー来航はその1年前にオランダから知らされていたが、なんの手も打つことができずに国書を受け取り、1年後に返事をすることを定めるに終わった。
このとき家慶は病床にあり、後事を阿部正弘と水戸藩前藩主・徳川斉昭に託したのち、死去した。
13代将軍・徳川家定
家慶にとって家定は唯一成人した子であるが、暗愚と病弱で知られ、嫡男をもうけることも絶望的とされていた。それゆえに家定死後の将軍継嗣にだれがなるかは家慶の存命中から問題となり、二つの派閥ができていた。それが英明で知られる斉昭の七男・一橋慶喜を推す一橋派と家定の従弟にあたる紀州藩主・徳川慶福を推す南紀派である。
この二つの派閥の対立は幕末の混乱の始まりであり、明治維新へと続く時代の節目となった。
家慶自身は家定ではなく慶喜を後継にと本気で考えていたようだが、阿部正弘の諫めにより断念している。もっとも家定との関係は良好であったため、病弱な家定が将軍職を継げば今後の過酷な政局で苦労する事を危惧していたともされる。
余談
心無い幕臣からは陰で「そうせい様」と呼ばれていた。これは案件を持ち込まれても、「そうせい」と返事をすることが多かったから、とされる。もっとも本人は全く意志を持っていなかった訳ではなく、上知令の際には水野忠邦に政策の撤回を直々に申し渡している。
また、第4代将軍の徳川家綱も「左様にせい様」という渾名を付けられていた。
焼き魚に添えられている生姜が好物だったと言われている。しかし、水野忠邦の天保の改革により生姜が禁止されて食膳に並ばなくなった事を嘆いたという逸話が残る。