概要
黒船来航
嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀沖にマシュー・ペリー提督率いるアメリカ軍艦隊4隻が現れ、開国を迫る国書を幕府に送呈する事件が起こった。
ときの老中首座・阿部正弘は返事を1年後に先延ばしするしかなく、この間、幕府は対応策をあらゆる階層から公募する手段をとった。
上申書のほとんどは「外国船討つべし」との意見(攘夷論)が多く、とるに足りないものが多かったが、幕府がとったこの施策により、これまで外交・政治に関与することのなかった外様大名が幕府に意見することも多くなっていった。
このとき台頭したのが、越前藩主・松平慶永、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内豊信、宇和島藩主・伊達宗城ら、徳川一門の松平慶永を除くと大領を有する有力外様大名であった。
この大切な時期にあって、嘉永6年(1853年)6月22日、前将軍・徳川家慶が亡くなってしまった。
翌嘉永7年(1854年)1月、ペリー率いる艦隊7隻が現れる。圧力に屈した幕府は「日米和親条約」を締結、日本国内に攘夷派の不満が残ることとなった。
将軍後嗣
ときの13代将軍・徳川家定は病弱無能で知られ、世継ぎをもうけることも絶望視されており、将軍継嗣は先代将軍・家慶の存命中から問題になっていた。
平穏な時代であれば、次期将軍は徳川宗家に近い人物が選ばれるはずであったが、騒乱が予見されており、英明な人物を次期将軍に選ぶか、それとも徳川宗家に近い人物を選ぶかが問題となった。
このとき、英明な人物として評判がよかったのは水戸藩前藩主・徳川斉昭の七男・一橋慶喜であった。この慶喜を推したのは12代将軍・徳川家慶、慶喜の実父と兄である徳川斉昭・慶篤父子、老中首座・阿部正弘、越前藩主・松平慶永、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内豊信、宇和島藩主・伊達宗城ら一橋派であった。
一方、徳川宗家の血筋に近いという観点からの候補が、家定の従弟である紀州藩主・徳川慶福である。彼を推したのは13代将軍・徳川家定、彦根藩主・井伊直弼、田安徳川家当主・田安慶頼(松平慶永の異母弟)、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤らをはじめとする譜代大名、慶喜の将軍就任によって経費削減を迫られる(と思いこんだ)大奥の女性たちであった。
将軍・徳川家定の死
これらの対立を打破するため、安政3年(1856年)薩摩藩主・島津斉彬は養女にした島津一門の娘・篤姫を将軍・徳川家定に娶わせ、大奥を味方につける工作を開始した。
安政4年(1857年)6月、一橋慶喜擁立を主導していた老中首座・阿部正弘が急死すると、翌安政5年(1858年)4月、井伊直弼が大老に就任した。
同年6月、井伊は孝明天皇の勅許なしで「日米修好通商条約」を締結、このことに激怒した一橋慶喜、徳川斉昭、徳川慶篤、松平慶永、尾張藩主・徳川慶怨が江戸城に無断登城、井伊を詰問する事件が起こった。
直後の7月、将軍・徳川家定が急死、紀州藩主・徳川慶福が将軍に就任、名を徳川家茂に改めた。
安政の大獄
実権を握った井伊直弼は反対派の弾圧を断行する。
家定の死後、すぐに死去した島津斉彬を除くと、一橋慶喜、徳川斉昭、徳川慶篤、松平慶永、山内豊信、徳川慶怨、伊達宗城らは蟄居・謹慎に追い込まれた。
また橋本左内(福井藩士)など一橋派大名の藩士も罪に問われ、尊王攘夷派の学者や浪人も多く罪に問われた。
大獄は安政7年(1860年)3月の「桜田門外の変」で直弼が暗殺されたことで終わりをつげる。
文久2年(1862年)、薩摩藩の実権を握る島津久光の要求により、一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永改め春嶽が政事総裁職に就任したことで、一橋派が実権を握ることになる。
一方南紀派は、直弼亡き井伊家が直弼の専横を責められて10万石減封、田安慶頼が官位降格の上で隠居を命じられた他、隠居を命じられる者が多数発生し、南紀派は権力を失うことになる。