事件の背景
時は幕末の安政5年(1858年)。病弱で世子が見込めない第13代征夷大将軍・徳川家定の後継問題、そして黒船来航と、時の江戸幕府大老・井伊直弼は、内憂外患の状況に直面していた。
さらに日米修好通商条約の締結は、攘夷論の強かった朝廷の反発を買い、孝明天皇は幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ下した。
直弼を糾弾する声が高まる中、直弼は強権を発揮し、100人以上にも及ぶ攘夷派の公家や志士の粛正を行った(安政の大獄)。
この出来事は全国に衝撃を与え、尊王攘夷急進派の水戸藩士は藩を脱藩して、直弼の暗殺計画を進めた。
発生
事件が起こったのは、安政7年3月3日(1860年3月24日)。
この日は雛祭りであり、江戸に住まう諸藩の大名は江戸城に登城して祝いを述べる日とされていた。
襲撃者側は、この日であれば大老である井伊直弼も登城するのは確実と踏んだのである。
またこの襲撃が成功した時、薩摩藩が3,000の兵で大阪を経て京に入り、孝明天皇を比叡山に遷行する手筈となっていた。
水戸浪士の一行は前夜、東海道品川宿の旅籠に泊まり、3月3日の早朝、品川宿を出立。愛宕山山頂に鎮座する愛宕権現に集合して、大願成就を祈願し、一路、桜田門へ向かった。
登城日は沢山の大名行列が江戸城に向かうため、地方出身の武士などは、この行列の見物のために沿道に立ち並ぶということがごく普通であった。襲撃者達は人混みに紛れ、手には『大名武鑑』という大名家のガイドブックを持ち、登城大名を見物する田舎侍を装っていた。このため怪しまれずに直弼の駕籠に近づくことが出来たのだった。
午前9時頃に彦根藩邸を出立した直弼は、江戸城外の桜田門外の杵築藩邸の前に差し掛かったところで、浪士達の襲撃を受けた。
折しもこの日は降りしきる雪で視界が悪く、直弼護衛の侍たちは雨合羽を羽織り、刀にも柄袋をかけていたので、咄嗟に抜刀するのが困難だったと言われる。また江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠が襲われた前例はなく、彦根藩行列の警護は薄かった。そもそも事前に襲撃の情報は直弼の元に届いていたが、警備を厳重にすると、大老としての面目が潰れてしまうため、あえて捨て置いたという。
まず森五六郎が訴状を持って直訴する体を装い、行列の先供・日下部三郎右衛門に近づいて斬りかかり、更に佐野竹之介が続く。行列の先頭に彦根藩士の注意が引き付けられた折に、合図も兼ねた黒沢忠三郎の駕籠に向けてのピストルの銃撃音が鳴り響き、十数人の浪士本隊による大名駕籠への抜刀襲撃が一斉に開始された。
だが、浪士側は実戦経験のある者は皆無で、逆上して間合いを測れず刀を振り回すだけだったり、いきなり鍔迫り合いとなったりする者が続出して彼我に指・鼻・耳などを欠損する者が相次いだ。また、同士討ちを防ぐ為に白襷と白鉢巻を着用する筈が、白鉢巻をつけた者も「正」「堂」の合言葉を使う者もなく、雪で視界が悪い事もあって同士討ちも発生し、斬奸趣意書を老中に提出する役の斎藤監物すら使命を忘れて斬り合いに参加する有り様であった。
しかし、実戦経験が無いのは彦根藩側も同じであり、更に突然の奇襲を受けた事で浪士側以上の大混乱に陥った。そのうえ先述の雨合羽や柄袋が邪魔をして抜刀するのに手間取ったため、満足な迎撃も応戦も出来ない者が多く、鞘から抜かぬまま応戦したり、中には素手で刀を掴んで指を欠損する者もいるなど苦戦を強いられた。それでも駕籠脇に常に控えていた御供目付河西忠左衛門と永田太郎兵衛正備が冷静に抜刀して二刀流で立ち向かい、河西が稲田重蔵を斬り倒すなどといった奮戦もあったが、その河西は討たれ、永田も早くに銃創を受け事で奮戦空しく討死を遂げ、守る者がいなくなり、無情にも打ち捨てられた駕籠に次々と襲撃者が襲いかかった。駕籠の中の直弼は新心新流という居合を興した達人であったが、黒沢の銃弾が太腿から腰を貫通して下半身不随となり、既に戦闘不能となっていた。
一説ではまずは稲田が刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりをして駕籠を刺し貫き、続けて広岡子之次郎、薩摩藩士有村治左衛門の刀が駕籠に突き刺さった。その後、駕籠の扉が開かれて息も絶え絶えな直弼が有村に引きずり出され、勝鬨の声とも言える雄叫びとともにその首が斬り落とされた、と言われている。
事変の一部始終を見ていた水戸藩士によると、その間、「わずか煙草二服ばかりの時間」。襲撃から殺害までほんの数分の出来事だった。
目的を果たした浪士側は引き揚げていった。これを追撃した彦根藩士は御供目付側小姓の小河原秀之丞のみで、小河原は重傷を負って昏倒していたが意識を取り戻し、直弼の首を奪還しようとその首を持つ有村に追いつき背後からの一太刀で深手を負わせた。その小河原も有村と共にいた他の浪士に斬り倒され、その光景は凄惨なものであったという。
また襲撃の終わった現場では深手を負った彦根藩士2人が直弼の首の無い遺体を駕籠に入れ、駕籠を担ごうとするも碌に歩く事も出来ず倒れ、赤合羽を着た彦根藩士2人が駆け付け、代わって駕籠を担いでいったという。
そして漸く武装した数十人の彦根藩士達が藩邸から出てきたのは何もかも終わった後の事であった。
この事件での浪士側の死者は稲田だけであったが、後に深手を負った有村をはじめ4名が自害し、8名が老中脇坂安宅邸、肥後藩屋敷に自訴し、そのうち4名が重傷で、後に佐野、斎藤が死亡。他の4名は軽傷であった。総指揮者の関鉄之介、検視見届役の岡部三十郎は襲撃には参加せず、直弼を討ち取ったのを現場で確認した後に京に向かい、広木松之介・増子金八・海後磋磯之介は負傷したものの逃走する事に成功した。
対して彦根藩士は河西、永田を含めた4名が現場で討ち死にし、小河原をはじめ3名がその日のうちに息を引き取り、後に日下部が死亡。その他に9名が手疵、4名が薄手と記録されている。
その後
●薩摩藩は藩主の父である島津久光が尊王攘夷派を抑えて兵を上京させず、あまつさえ連絡にきた水戸浪士金子孫二郎を京都藩邸で捕縛し、更に放免して幕史に捕縛させる有様であった。
この為に拠り所を失った関達は追われる身となり逃亡の末、関は文久元年10月22日に越後で、岡部は万延2年の2月に江戸で捕縛され、関は文久2年5月11日に、岡部は自訴した5名と金子と共に文久元年7月26日に斬首された。
塩漬けとなって甕に入れられていた病死した黒沢を含む稲田、有村などの7名の遺体も死罪相当として文久元年7月28日に首を斬られ、小塚原刑場に捨てられた。
襲撃後に逃亡した3名のうち広木は3年後に切腹(後述)、増子と海後は潜伏生活を送り明治まで存命している。
●襲撃を受けた彦根藩士も、直弼を守れなかった咎で処罰対象となり、重傷者8名は下野国の佐野に配流され、藩邸に逃げ帰った者のうち軽傷であった5名は切腹、無傷だった6名は切腹すら許されず町人のように全員が斬首という哀れな結果になった。
●広木松之介は同志の殆どがこの世を去った事を知り、文久2年の桜田門外の変のあった3月3日を選んで、寄宿していた鎌倉の上行寺で夜に自刃した。だが後の9月13日に小伝馬町で前年の12月に能登で捕縛された広木松之介が絶食のうちに死亡する奇妙な事象が発生している。
実は餓死したのは水戸の郷士後藤哲之介であり、広木が新潟に潜伏時に出会い、広木から信頼されて氏素性を全て伝えられたのに感激し、金銭を与えた事から謝礼として広木の印形を与えられており、能登で宿谷改めの役人に水戸訛りで逃亡中の水戸浪人と思われ捕縛され、広木の印形を持っていた事から広木と断定されたものであった。
だが、後藤は広木を守るためにそれを否定することなく粛々と牢で餓死を選んだのであった。
●彦根藩士河西忠左衛門は他藩にも名を知られた剣客であり、襲撃を受けた折も他の藩士の多くが合羽、刀の柄袋をなかなか外せないまま一方的に斬り倒されるなか、いち早く合羽を脱ぎ、柄袋を外し、襷をかけて臨戦態勢となって二刀流を使い駕籠脇を離れず奮戦したと言われる。その折に使用した89㎝という三尺近い刀は刃こぼれも生々しく今も彦根城博物館に展示されている。
また、同博物館には河西と共に二刀流で奮戦したと言われる、やはり刃こぼれの著しい永田太郎兵衛正備の刀も展示されている。こちらは永田の子孫である永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって寄贈されたものである。
●事件後、幕府は直弼が暗殺された事実を隠した。それは井伊家の断絶や水戸藩との争乱の激化を防ぐためだったといわれる。表向きには「襲撃時に首を取られたのは加田九郎太(闘死した藩士の一人で、年齢と体格が直弼に近かった)」「直弼は襲撃で負傷し、しばらく闘病した後に亡くなった」とされた。このため、井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑には、直弼の命日が桜田門外の変の発生日の「安政七年三月三日没」(1860年3月24日)ではなく、「萬延元年閏三月二十八日没」(1860年5月18日)と刻まれている。もっとも、事件直後の現場には後続の大名行列が次々と通過し、血に染まった雪は見物人も含む多くの人々に目撃されていたため、直弼が暗殺された事実はあっという間に江戸中の知るところとなった。首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉られ、それにまつわる川柳も相次いで読まれている。
- 「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」:「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」を「いい鴨」と引っ掛けたもの
- 「倹約で枕いらずの御病人」:首がないから枕は要らないですね。
- 「遺言は尻でなさるや御大病」:首がない(喋れない)ので遺言は尻でなさるのか?
- 「人参で首をつげとの御沙汰かな」:「(見舞いの品として送られた)御種人蔘で(切られた)首を繋げ」という御沙汰が幕府から出たのか?
●大老の暗殺という大事件により長年持続した江戸幕府の権威も大きく失墜し、尊王攘夷運動が激化する端緒となった。これより7年後に実現する大政奉還と明治維新への起点が、この桜田門外の変であった。
●事件以降、水戸と彦根の間にはわだかまりが生まれたが、約109年後の1968年(昭和43年)に彦根市と水戸市が親善都市提携を結び、和解が成立した。