旧暦1854年11月27日(グレゴリオ暦1855年1月15日)~旧暦1860年3月18日(グレゴリオ暦1860年4月8日)
概要
黒船来航&開国後、1年も経たずして「嘉永」から「安政」へ改元された。由来は『群書治要』第38巻の一節「庶民安政、然後君子安位矣」から。
安政年間では第13代将軍・徳川家定の継嗣問題が発生。当時将軍候補として一橋慶喜と徳川慶福が挙がり、慶喜を推す「一橋派」と慶福を推す「南紀派」に分かれ激しい争いが始まったが、安政5年4月に譜代大名・井伊直弼が大老に就任すると、慶福を継嗣とすることを決定。
また開国論者の彼の主導の元、同年中に朝廷の勅許を得ず日米通商修好条約に調印。日米修好通商条約の締結の結果、攘夷論の強かった朝廷および尊王攘夷急進派の水戸藩士たちの間で、直弼を糾弾する声が高まっていった。
これに対し直弼は強権を発揮し、安政5年~6年に100人以上にも及ぶ攘夷派の公家や志士の粛正を行った(安政の大獄)が、安政7年3月3日、直弼は水戸藩士らにより暗殺されることになる(桜田門外の変)。同年3月18日に「万延」へ改元。
安政の大地震
安政年間には、日本各地で大地震が頻発し甚大な被害が出た。1854年12月23日には、東海道沖を震源とする安政東海地震(M8.4)が起き、そのわずか32時間後に南海道沖で安政南海地震(M8.4)が発生した。そして1855年11月11日には、最大の被害を出した安政江戸地震(M6.9〜7.1)が江戸で発生した。これらの大地震は安政の大地震と総称されている。特に安政江戸地震は有名であり、藤田東湖らもこのときに圧死した。また、安政江戸地震を契機に、大鯰と地震を主題にした「鯰絵」と呼ばれる錦絵(浮世絵版画)が大量に出版された。