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一橋派

ひとつばしは

江戸幕府末期、13代将軍・徳川家定の後嗣をめぐって一橋慶喜を推した一派。
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概要

江戸時代末期、江戸幕府は度重なる黒船来航に混乱の度を極めつつあった。

当時の将軍は13代・徳川家定は、政治的に無能との評があるうえ、病弱であったため、家定と大奥の女性たちとの間に将軍継嗣を望むことは困難であろうことが予測されていた。

当時存命であった12代・徳川家慶や幕閣はこの事態を憂えて、次期将軍をだれにするかを考えざるをえない状況に置かれた。


この当時、考えられていた候補者はふたり、ひとりは将軍・家定に最も血筋の近い紀伊藩主・徳川慶福、もうひとりは水戸藩主・徳川斉昭の七男で御三卿・一橋家の家督を継ぎ、英明で知られた一橋慶喜であった。


このうち、慶福を推した南紀派は将軍・家定をはじめ血筋を重視する彦根藩主・井伊直弼、会津藩主・松平容保ら譜代や親藩の大名たちであり、慶喜を推した一橋派は前将軍・徳川家慶、幕閣を主導する老中首座・阿部正弘、親藩のなかでも越前福井藩主・松平慶永、慶喜の父・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城ら有力外様大名であった。


対立が深まるなか、安政3年(1856年)、島津斉彬は一門・島津忠剛の娘を養女にしたうえ、右大臣・近衛忠煕の養女(篤姫)として将軍・家定に娶わせる。

大奥に慶喜シンパを作ることが目的であり、慶喜を将軍継嗣にすることを家定に納得させるためであった。


安政4年(1857年)、阿部正弘が39歳の若さで急死したことにより、井伊直弼が大老に就任。井伊は勅許を得ることなく「日米修好通商条約」を締結したことを怒った徳川斉昭・慶篤親子、尾張藩主・徳川慶恕、松平慶永は無断登城し井伊を責め立てたことによって、後に起きる「安政の大獄」の口実のひとつとなった。

対立は南紀派有利に傾き、安政5年(1858年)7月5日、病床にある家定が将軍継嗣に慶福を定めたことを宣言、翌7月6日に亡くなったことにより慶福が将軍に就任し「徳川家茂」に名を改めた。


その直後、井伊による大弾圧「安政の大獄」がはじまり無断登城した斉昭らは隠居・謹慎を命じられ、多くの反対派が処刑されることとなった。特に一橋慶喜は罪状が不明のままの処分であった。また、この大弾圧にあった人物は一橋派だけでなく攘夷派も含まれており、桜田門外の変から幕末の動乱につながっていった。


なお余談ながら、家定の死から10日たった安政5年(1858年)7月16日、練兵の指揮を執っていた島津斉彬も薩摩で急死しており、薩摩においても斉彬の父・斉興が斉彬派を弾圧、守旧派が一時的に勢力を盛り返していくこととなった。


復権

1860(安政7/万延元)年の桜田門外の変で井伊直弼が殺害された後、安政の大獄で罰せられていた一橋派は復権し、1862(文久2)年から始まった「文久の改革」で、慶喜が将軍後見職に、春嶽が政事総裁職に就任し、容堂や宗城、そして斉彬の異母弟である島津久光ら雄藩大名(薩摩藩は久光の子・忠義が相続)たちが幕政を主導していく事になったが、幕府の退勢を覆すことはできずに、5年後の1867(慶応3)年に15代将軍となっていた慶喜が大政奉還したことにより、260年以上に及んだ江戸幕府の治世に幕が下りることになった。


関連タグ

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