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山内容堂

やまのうちようどう

土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1827年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。

概要

1827年11月27日~1872年7月26日。
官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。

土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。

明治維新後は内国事務総裁に就任したが、かつて家臣や領民であったような身分の者と馴染む事ができず、明治2年(1869年)に辞職。3年後に長年の飲酒がたたって脳溢血で死去。

武芸に秀でて、軍学は北条流、弓術は吉田流、馬術は大坪流、槍術は以心流、剣術は無外流、居合術は14歳で長谷川流を学び18歳で目録を得た。特に居合の腕前は凄まじく、板垣退助に「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(史談会速記録)といわしめている。

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