概要
高知県出身の日本の政治家。(1837年5月21日~1919年7月16日)
「乾」姓だったが、甲州戦争の際に先祖である板垣信方(武田信玄の教育係)に肖り「板垣」姓を名乗る。
幕末は土佐藩で尊王討幕の志士、明治時代は自由民権運動の立役者として活躍した。
華族制度には反対であり、明治天皇から3度の懇願を受けて渋々ながら伯爵となった。元勲の一人である。
来歴
江戸時代
乾家の嫡男として生まれた。幼名は「猪之助」。通称は「退助」。諱は初め「正躬」、のち「正形」。
藩主山内容堂に仕え、土佐が討幕側に傾く中、勝海舟や大久保一蔵等の影響を受け、武力討幕論を唱え兵法を学ぶ。やがて坂本龍馬の脱藩を山内家が認めようかと打診し始めた際には、龍馬の脱藩承認を全力で支援した。
容堂やその腹心吉田東洋らに仕えていたため、土佐勤王党(下士や白札により構成される組織)とは敵対する立場にあった。しかし改革思想には共鳴していたようで、後に彼が推し進める自由民権運動も坂本龍馬やその師匠の松平春嶽の影響を受けている。後の世の龍馬ブームは、自由民権運動を推し進めていた旧土佐藩志士たちの多くが龍馬の影響を受け、ここぞとばかりにプロパガンダしまくったのが原因でもある。
坂本龍馬と中岡慎太郎が薩長同盟を結んで1年が経った1867年、同士谷干城らと共に、中岡の仲裁を受けて西郷吉之助と薩土密約を提携。戊辰戦争の時代となる。
1868年3月29日、新政府軍は甲州に侵攻。退助は土佐藩・迅衝隊の総督を務め、戦場となる山梨の民衆の支持を集めよと岩倉具視に唆されて「板垣」に改姓。甲州勝沼の戦いでは近藤勇率いる新選組に圧勝した。
10月8日、新政府軍は若松城下に突入。会津藩士は若松城に篭城して抵抗したが、11月6日に新政府軍に降伏。板垣は松平容保に藩主としての体面を保たせ輿に乗って城から出る事を許し、この事に会津藩士は感激した。さらに会津藩の罪を減ずるよう嘆願を上奏し、家老が詰腹を切る事を条件に、松平容保は切腹や改易処分を逃れた。賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉回復に努めたため、維新後には多くの会津人が土佐を訪れて感謝の気持ちを表し、福島県は東北での自由民権運動の中心地となった。
明治時代
明治新政府では参与となるが1873年、「明治六年の政変」で征韓論論争に敗れ、西郷や後藤、江藤新平らと共に下野。
1874年、後藤と共に民選議院設立建白書を提出するも突っぱねられ、高知で立志社を立てた。
1875年、再び参議に戻るも、すぐに辞し草莽の士として国民国家の樹立を目指し啓蒙に努めた。
1881年、「明治十四年の政変」により「10年後に国会を開く」という国会開設の詔が出たことを受け、自由党を結成。全国を遊説する。
暗殺未遂
- 板垣は1882年、1884年、1892年と3度にわたり暗殺されそうになったが、1882年の相原尚褧による暗殺未遂は「板垣死すとも自由は死せず」の名言により特に有名である。
- 板垣は本山団蔵から呑敵流柔術を学んでおり、相原が短刀で刺しに来た際、肘による当身で反撃したが力を入れ過ぎて腹部に当たった。相原はすぐ取り押さえられたが、警察の取り調べ中「脾腹が充血して痛みに耐えられん」と言い、調べて見ると脾腹が黒いアザになっていた。
- 仲間に抱えられて病院に搬送される中、板垣は小さく「吾死スルトモ自由ハ死セン」と伝えた。この言葉が報じられていくうちに、かの「板垣死すとも自由は死せず」の名言が生まれたと言われている。
1882年~1883年、ヨーロッパへ視察旅行へ行き、ジョルジュ・クレマンソー、ビクトル・ユーゴー、ハーバート・スペンサー、エミール・アコラス等と会談した。板垣の外遊中に自由党は混迷を深めた。
1884年、板垣は過激化していく自由民権運動を憂い自由党を解散する。
一般的に、学校で「自由民権運動のリーダー」と教えられるため、板垣退助をリベラルな平和主義者と思っている人は多いかもしれないが、実際はかなり戦闘的な人物である。
アジア主義者の頭山満による『明治十年戦争の翌年、板垣退助との交渉』という回想手記によれば、1878年に頭山と面談した板垣は、民権を唱える理由として「いやしくも日本国民たるものは四民ことごとくが武士でなくてはならぬ。何者であろうと皆兵にせなくちゃならぬ」と語ったという。
板垣の民権思想は、アメリカ独立戦争で民衆が自ら武装して宗主国イギリスに戦いを挑んだことや、フランス革命後に政府が革命政権を守るため徴兵制による国民軍を組織したことを意識し、国民の武装による自衛の思想とセットだった。
1890年、板垣は立憲自由党を結成し、翌年に「自由党」の名に戻す。対立していた大隈重信らとともに「憲政党」を結成し、長州藩閥・薩摩藩閥を中心とする政府と対決した。
1898年、憲政党による大隈重信内閣が成立すると、要職の内務大臣として入閣。これは近代日本最初の政党内閣であるが、党内の大隈支持者と板垣支持者の内紛のため、約4か月と短命に終わった。
その後、板垣が組織した自由党の議員の多くは、政府内の穏健な改革派といえる伊藤博文と協調して立憲政友会に合流する。
1900年、立憲政友会の結成に伴い、板垣は政界を引退する。
1919年7月16日、肺炎のため死去(満82歳)。葬儀では16人もの力士が板垣の棺を担いだ。
人物
- 後藤象二郎とは幼馴染である。ある時、後藤が蛇嫌いなのを知った板垣は棒の先に吊るしたアオダイショウを持って後藤を追いかけたが、怒った後藤は道端の犬の糞を板垣の顔に投げつけて反撃。板垣は潔癖症だったため「糞を投げるは卑怯なり」と言って降参した。
- 頑固者の印象が強いが実際は寛大な人物であり、会津藩士たちの再就職に尽力したほか、岐阜で自分を刺した相原尚褧の恩赦歎願書を明治天皇に奉呈した。
- 金銭欲は薄く、晩年には家宝の刀を売るなど困窮していた。
- 50銭札(1948~1957年)や100円札(1953~1974年)の肖像に選ばれている。
- 国会議事堂の中央広間に飾られた3人の銅像の1人である。
- 迷信を嫌い、食べ合わせの悪い食べ物を食べても不具合が起きない、お守りを便所に捨てても罰が当たらないなど、実践して確かめた。
- 外遊中に購入したトランクは日本最古のルイ・ヴィトン製品として高知市立自由民権記念館に展示されている。
- 国技館の名前を決める委員会に参加し尚武館を提案したが勝負を連想するため却下され国技館に決定した。後日東京朝日新聞で武育館でも良かったと悔しがっている記事がある。
関連人物
創作での板垣退助
板垣退助を題材にした人物、またはモチーフにしたキャラクターが登場する作品。
『お~い!竜馬』
肖像画から髭を剃ったような美男子として登場。序盤では相方の後藤ともども、武市半平太ら下士を弾圧する。
『ラヴヘブン』
乙女パズルゲームの攻略キャラクター。→板垣退助(ラヴヘブン)
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。料理が得意。
関連項目
マーカス・マーズ聖:少年漫画『ONEPIECE』に登場する権力者であり、板垣退助をモデルにしていると思われる人物。
福澤諭吉:神社のお守りを同じようにわざと粗末に扱い、バチが当たらないことを証明した。
板垣信方:先祖。山梨県塩山市の恵林寺(武田信玄の菩提寺)にある『武田二十四将画像』の信方の肖像には、退助の直筆で讃文(像主の生前の功績を称える文章)を書き込んでいる。
両国国技館:「国技館」の名付け親。子供の頃からの相撲好きで、角界の保護、発展に尽力した。
日光東照宮:日光口の戦いの折、焼き討ちに反対して後の世界遺産となる日光の社寺を保護した。「日光の恩人」として南光坊天海とともに銅像が建てられた。