概要
幕末の長州藩は、吉田松陰の松下村塾生(高杉晋作・久坂玄瑞他)を始めとした尊王攘夷派の勢力が非常に強く、江戸幕府は幾度となくこれに弾圧を加えてきた。
公武合体(天皇家と江戸幕府の協力)を支持する薩摩藩は長州藩を邪魔に思い、幕府側に立ち長州征伐に協力していたのだが、実はこれには幕府のもくろみがあった。薩摩藩は長崎以外で唯一外国(当時琉球は独立国家だった)との取引が認められており、琉球との貿易により潤沢な資金を有していた。薩摩を敵に回すと厄介だと感じた幕府は、当面の敵である長州藩を攻撃させることで薩摩の軍資金を擦り減らそうとしていたのである。
また薩摩藩にしても長州藩の急進的なやり方を快く思っておらず、むしろ目の上のたんこぶである長州を叩くために八月十八日の政変以来、幕府や会津藩と手を結んでいた。1864年の禁門の変で長州軍は壊滅し久坂や真木和泉らは自刃、さらに生野の乱の首謀者で京で投獄されていた平野国臣も殺害され池田屋事件と合わせて尊王攘夷派は大打撃を受けた。
さらに第一次長州征討で長州藩は保守派が主導権を握り(総大将の前尾張藩主・徳川慶勝と総参謀の薩摩藩士・西郷吉之助の策もあり)幕府軍に屈服する。これにより全国的に尊王攘夷派弾圧が進むことになり土佐の武市半平太も切腹させられる。この状況に危機感を持っていた福岡藩の尊王派藩士である月形洗蔵は江戸幕府から朝敵と認定され一切の武器の取引を禁止された長州藩に対し薩摩藩と同盟を組ませることで反幕府勢力を纏めようとした。月形ものちに福岡藩に処刑されたがその構想は月形と交流があった土佐藩脱藩浪士である坂本龍馬と中岡慎太郎に受け継がれ、長州藩と薩摩藩と同盟を組ませることに奔走した。この頃の長州藩は高杉や伊藤俊輔らによる功山寺決起をきっかけに尊王派が保守派を打倒し政権を握り、但馬国出石に潜伏していた尊王派のリーダー格である桂小五郎を迎え入れていた。一方の薩摩も先述の西郷吉之助に大久保一蔵らが「長州が潰されれば次は自分達が因縁を付けられて幕府に潰されるかもしれん」と危惧していた。しかし長州からも薩摩からも同盟に対しては反対の声も強く難航したが龍馬や中岡に龍馬らと同じ土佐出身の土方楠左衛門らの奔走もあり、1866年に西郷と桂は軍事同盟の締結を執り行った。
これにより長州藩は武器を龍馬の亀山社中の仲介を経て薩摩から入手することが可能になり、後の第二次長州征討で幕府軍は村田蔵六(大村益次郎)の軍略に翻弄されてこずりまくった上に石州口では徳川慶喜の弟が藩主を務める浜田藩領への逆侵攻を許し居城の浜田城を落とされ、小倉口では高杉や山縣狂介らにより幕府老中小笠原長行の小倉藩領へ侵攻され居城の小倉城を放棄するという大失態を晒すことになってしまう。さらに将軍徳川家茂が大坂城で病死し勅命で長州征討は中止になったが、幕府の権威は大いに失墜することになった。
なお、長州藩はこれを機に毛利元就の頃以来となる北九州領有を狙い小倉藩領への侵攻を続けたが小倉藩も激しく抵抗するなど長州藩と小倉藩の戦闘は続いた。