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明治大正軍人政治家武士の下働きの中間身分(足軽のさらに下)という低い身分の出身ながら公爵・元老・陸軍元帥の地位にまで栄達を遂げ、「国軍の父」「元老中の元老」と言われる。

生涯

天保9年(西暦1838年)閏4月、長門国萩城下に生まれた。5歳で母の松子を亡くし、父は23歳の時に死去した。

21歳の時に藩から京都に派遣されると、尊王攘夷思想の洗礼を受け、久坂玄瑞の紹介で、帰藩後吉田松陰松下村塾に入門した。短期間ではあったが山縣は松陰に強い影響を受け、生涯師として敬事した。山縣は狂介と改名し、後には高杉晋作が建軍した奇兵隊の軍監になり、また明治維新にはこれを率いて長岡攻囲戦にのぞんでいる。

西郷隆盛の協力を得て陸軍大輔に就任、日本陸軍創設の父である大村益次郎の実質的な後継者として帝国陸軍建設を実行、徴兵制を施行した。一時山城屋事件の不手際で江藤新平らの追及を受け陸軍大輔を退くも、明治6年には初代陸軍卿として復帰。参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。西南戦争を徴兵の軍隊によって遂行し、かつて世話になった西郷に自決を勧める手紙を送った。

政治家としては、伊藤博文憲法調査のため渡欧すると、その留守を預かって参事院議長となり、後半生の活動をここに開始。

明治16年には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。内閣総理大臣としては朝鮮半島の確保を説き、超然主義をもって初期議会の運営にあたった。明治23年に教育勅語を発布、次年には元老となって伊藤博文と並ぶ長州閥の領袖として「元老政治」を行った。

日清戦争では第一軍司令官として満洲の地にあり、兵士に「捕虜となるより潔く一死を遂ぐべし」と訓示した。これは、山縣が大陸において中国人の残虐さを知り、捕虜になった日本兵が生きて残酷な拷問や処刑(四肢を切断されたり、を潰す・を削ぐなど)をされるよりは、自決したほうが兵のためだとの判断から出た訓示であった。明治31年、第2次山縣内閣を組閣。治安警察法を制定し、社会主義者への弾圧を進めた。日露戦争では参謀総長兼兵站総監を務める。

明治42年に伊藤博文が暗殺されたあとは、元勲として軍および政界で絶大な権力を振るうが、同時に頭山満を中心とした右翼たちから「天皇の権威を利用して、国家を私物化している」として敵視されるようになっていた。

山縣は議会と対立し、超然主義を主張しつづけたが、大正政変以降は政党政治への流れに抗し切れなくなり、また、「宮中某重大事件」によって山縣の政治的影響力は失墜していくことになる。晩年は宮中某重大事件でも共闘していた原敬を擁立したが、原が右翼の放った刺客によって暗殺された3ヶ月後の大正11年2月1日、失意の山縣は小田原の別邸・古稀庵で、85歳の生涯を閉じた。山縣は死の間際に際して「一部の皇族と右翼が連合を組んで、日本の針路を誤らせる恐れがあるので、十分に注意するように」との遺言を残したという。

2月9日、山縣の葬儀は国葬をもって日比谷公園で挙行されたが、その一ヶ月前に同所で盛大に行われた大隈重信の国民葬と比較すると淋しいもので、「民抜きの国葬」と表現された。

評価

山縣は生前、明治の藩閥・軍閥・官僚機構の中心人物として国民から恐れられ、大正デモクラシー的な政党政治や民主主義を信用せず、これらを抑えようとした(山縣はフランスでパリ・コミューンの反乱を目撃しており、大衆の暴走によって天皇の地位が脅かされることを危惧するようになった)。こうしたことから多くの文化人や、政党政治家からは嫌われていた。原敬からですら勲章を見せびらかす一面を「あれは足軽だから」と述べていた。

死後もそのイメージは根強く残り、当時のジャーナリスト石橋湛山からは「死もまた社会奉仕」と述べられていた。敗戦後は、山縣が作った統帥権が軍部の独走を生んだとして「悪役」として描かれることが多かった(司馬遼太郎は山縣を必ずしも単純に批判すべき対象とは思っておらず、力量や人間性については一定の評価も認めたものの、一方で山縣が時折見せた「狡さ」や彼の政策の影響が、彼の死後後年になって軍部の独走を生んだ原因の一つになった点は明確に指摘している)。

しかし近年になって、外交・安全保障で慎重姿勢を貫いていたことや、軍拡を求めても大陸政策は慎重だったこと、韓国併合にも消極的で、当初は朝鮮中立国化を目指していたことが明らかになり、「現実主義者」として再評価されている。さらに近年の歴史研究では、明治以降の政党政治家はしばしば乱暴な対外強硬論を叫び大衆への人気取りに走り、国民も威勢のいいことを主張する政治家を好んでいた側面もクローズアップされており(皮肉にもそのマイナス面は現在の政党政治とも共通してしまっている)、偏見も持つ大衆をあまり信用せず政党政治を抑えようとした山縣は、軍事力による日本の独立と国体の護持を模索した『近代日本の必要悪』と呼ばれるようにもなっている。

山縣は長州閥の代表であったことから、長州藩出身者だけを優遇して、他藩出身者を冷遇したとの批判もあるが、これは事実誤認であり、実際には山縣は長州藩の枠を超えて、かつて朝敵とされた藩出身者を含めて「山縣閥」とでも言うべき独自の派閥を形成していた(小倉藩出身の小川又次、会津藩出身の柴五郎など)。また、山縣は面倒見がよく、一度目にかけた部下を切り捨てたり、見捨てたりしなかったことから、山縣の派閥に属した軍人や官僚、政治家は、山縣を生涯慕っていた。また山縣も吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎、西郷隆盛、大久保利通など自分が世話になった先人たちへの恩義と尊敬の念も終生忘れず感じていた。政策としては長州閥のことや軍事面だけ重視していたわけではなく、地方自治制の将来も考え続けていた。

なお、昭和の陸海軍の暴走や陸海軍の不毛な対立は、大正期に藩閥が衰退したことにより、軍部と官僚機構との間で「同じ武士階級出身」もしくは「かつては同じ尊王志士だった」という共通基盤が失われたことによる意志疎通の欠如や、相互不信が影響したとされている。

創作作品での山縣有朋

フィクションでの演者など

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  • 時勢の応酬

    清浦さんと権兵衛バチバチに火花散らしつつも実は互いに認め合ってて〜〜〜〜〜!!!!!!!!(団扇)という思いで書き散らしました。時代考証は全然定かでは無いです。腐向け?っぽい描写がありますがそういうつもりは一切ありません…………拙作の清浦さんはちょっと妖艶なお姉さんポジ()なんだということを分かっていただければ………… バチバチして欲しかっただけなのになんか訳分からんことになってしまいました、すみません。いつか消すかもです…… 何か間違えや誤字脱字がございましたらコメント欄での指摘をお願いします………………………… 出典としては、「伯爵清浦奎吾傅 上下」、「三大宰相列伝 山本権兵衛」などです!また、清浦記念館に所蔵されているDVD「清浦奎吾の知られざる生涯」や江藤淳著作「海は甦える」などの二次創作です!(?)
  • 創作短編

    浮気ごころ

    「ちょ、何このタイトルいやいや違うからね?!」「まんざらでもないくせに」◆がち腐向け;;なんだかヤラシイ、ガタ隈です。え、こんなCPなんて好きですよ?←◆ガタ伊藤、隈聞が前提ですがね、ガタ伊、隈聞が前提です(キリッ☆◆重要なので二回言いましたwwまあ前提じゃなくてもいけますがw←あ、よろしければアンケートにもご協力ください;
  • 死に損ない達の宴。

    木戸さんと御神酒徳利と山縣が酒を飲んでるだけの超短編。
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    西南の戦が始まる。それは西郷との別れを意味した。戦時処理の相談のために岩倉邸に訪れた木戸の涙も流せぬ悲しみに岩倉は心を痛める。二人の間にあるもの。大切な友情と愛情。互いを繋ぐ糸を二人は再確認する。
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    長州三尊と呼ばれる者達。しかし、そこには必ず一人の人物が絡んでいる。『あのひと』、桂小五郎にして木戸孝允たる人物。そのひとを中心に集まって過ごした『大切な時間』、それを壊したのは・・・ それ故に、山縣は一層心を閉ざし、そして、井上は、その『大切な時間』を壊したものに狙われ続けている。『言わない言葉』は『言う事すら飽きるほど繰り替えされた拒絶の言葉』であることを伊藤は気づこうともしない。それが、伊藤だった。
  • 『Brave heart』

    まず、一言。 近衛文麿公を心より、お悼みします。 そして、もう一言。 愛していますよ、あなたのこと。 さて、実はこの小説を書いている時のBGMはタイトルどおりでした。 アニメ、『シャーマンキング』の主題歌だった 林原めぐみさんの『Brave heart』です。 この曲は聞くたびに私は近衛公を思い出します。 カラオケで歌う時もそうですね(ものすっごいカラオケ好きなんです、私/笑) 近衛公は私が非常に尊敬し大好きな人の一人です。 戦後、物凄く酷いいいざま、それも与論だけでなく、 夫人であった女性や、血縁者にまで凄まじく酷く言われてますが、 (TV放送で細君だった女性や近親者の女性達がこれでもかと、悪しざまに近衛公を罵っていた時は、 あの時は怒りで身が震えました。歯ぎしりして掌に爪を突き立てたものでした) 私は世に言われるように近衛公が『弱い』などとは決して思いません。 実際、それらの汚名は時間というものによって雪がれつつあります。 近衛公に全ての悪事と戦争責任を押し付けて逃げたのは、 木戸幸一です。 『木戸』の姓を名乗ってますが、維新三傑の木戸孝允公とは、全く血が繋がってません。 養子の更に養子です。本来の姓は『来原』です。本文でもそのあたりは述べてあります。 アレが木戸孝允公の姓を名乗っていたなんて私には実に赦しがたい。 木戸孝允公がご覧になられたら、ま、もう、ご覧になられてますでしょうから、 完全に魂までぶった斬られてますね。木戸孝允公って苛烈だから。 木戸孝允公といえば、徳富蘇峰の所為でなんか弱々しくて本人、相当苛烈でギラギラしてると思いますけど。 私は木戸孝允公の事も、というか、維新三傑の方々にも並々ならぬ尊敬を抱いています。物凄く大好きです。 その木戸公の姓を名乗るなんざ、おこがましいよ、来原よぉ。てめぇ、俺が首を落としてやるよ。手足も三寸刻みだ。なぶりなぶってぶっ殺してやる。 そう言いたくなるだけで済まないのが私ですが。 ま、言行一致で行きましょうやw 煉獄送りじゃ、すまねぇぜっとね。 つーか、徳富蘇峰にまで『卑怯極まる大奸物』っていわれてるたぁ、どこまでも終わってるなぁ、おい(嘲笑) それに比べて、近衛公の潔さと無私の奮闘には心より頭を垂れます。 『ありがとう』と。 どこまでも、裕仁様と国家国民を護ろうとしてくれた。 私にとっては『恩人』です。 近衛公がいなければ、今の日本はなかったでしょうね。 国体自体を解体されていた可能性がある。 それをさせずにギリギリまで戦って踏みとどまった。 それができるのは 本当に『強いひと』だからじゃないでしょうか? 本当に『勇気あるひと』だからじゃないでしょうか? 少なくとも私はそう思う。 力の限り戦ってそして決然と自決した。 美しいと思います。日本特有の美しさでしょう。 意見がフラフラするとかも言われますが、あれも来原の策の一つです。 聞き上手なんですね、近衛公。 どんな相手でも話をちゃんと聞く。そして、コメントを挟んで更に聞く。 そして、聴き終わる。でも、納得してないことには決して「そうだね」とは言わない。 ところが、ここを来原は利用するわけです。 色々なヤツに話をさせに行かせて、『最後まで話を聞いてくれたから、近衛公は自分の説に諒解した。同意した』 と、いう風に、周囲に言いふらさせる、新聞等のジャーナリズムに乗せて発信する。 となれば、確かに全然反対の意見でも『是とした』と言われる。つまり、意見が一貫しないと周囲からは見えるようになる。 西園寺公望公は流石ですね。この方も私が大尊敬して大好きな人ですが、 自分が死ぬ九年も前から近衛公に来原のことを、警戒しろと注意している。 それでも、近衛公はヤツを『友人』として信じていた。 近衛公は純粋なひとなんですよ。本当に清らかで。 傷つきやすいのに、それでも自分がしなきゃならないと思ったら、 とことんあらゆる手段を使って、だけど、悪い手段だけはしないで、とことん頑張る。 戦ってるじゃないですか。あんなに必死に立派に。 簡単に政局を投げ出すとも言われますが、それは『近衛家』の家名肩書きを利用されようとした時だけです。 そのときは素早く退く。これは戦術としてありでしょう。自分の名でとんでもないことされたら困りますから。責任だけ取らさせる。 内閣首班最初の第一次近衛内閣の時も、火中の栗を拾いに行かされて『二階に上げて階段を外す』という真似をされてますよね。 それでも、中国との関係を回復しようと、とことん尽力し続けた。 近衛公は閣僚にいようと、いまいと、自分が信じた道、なすべき義務、そう決めていた、中国との関係良好化、日米非戦、 これらについては自分のコネクションをフルに使って奔走している。 留学中の子弟からも市井の情報を集めさせてなるだけ正確な情報を自分宛に送らせているいるくらいですから。 だから、敗戦後暫くは米国でもGHQでも国民にも信頼があったんです。 その証拠にGHQは近衛公に新憲法の草案制作を頼んでいるし、 戦後処理内閣として、東久邇宮内閣にも大臣として入閣している。国民も支持していた。 しかし、ここからですよ。 来原の汚さは。 まぁ、その辺は本編にて述べています。 そして、徠原は自分は天皇を盾にして逃げおおせ、一気に人気と信望を失わされた近衛公は戦犯となる。 それでも、近衛公は何も言わなかった。自分に課せられた汚名も、冤罪も、黙って受け入れた。 『運命の子』は運命に従った…のでしょうか?。 全ては後の世に明らかになると、ただ静かに己の最後を受け入れた。 良い漢じゃないですか。 こんな良い漢はそうそういませんね。 『美しい』 私は最高の賛辞を送ります。 近衛公が最後に残した言葉に書かれた『神』。 それは『太陽の女神』のことでしょう。 皇祖神 天照大御神のことでしょう。 近衛公の最後の朝は、美しい陽光がさしていたのではないでしょうか? 愛していますよ。本当に。 近衛文麿公に興味を持たれた方は一度、資料を読んでみてください。 最新のものは2014年に出たものがあります。ここには最新の資料(平成一七年発見される)も用いられています。 参考資料一覧 『無念なり 近衛文麿の戦い』 大野芳 2014年1月22日発刊 平凡社 刊 『近衛文麿 黙して死す すりかえられた戦争責任』鳥居民 2007年3月28日 草思社 刊 『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子 2006年7月24日 日本経済新聞社 刊 『近衛文麿 『運命』の政治家』 岡義武 1994 岩波書店 刊 『近衛文麿 誇り高き名門宰相の悲劇』 矢部貞治 1993年10月7日 光人社NF文庫 刊 
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  • 『ふたつの祈り ふたつの嘘』

    相対する山縣と原。山縣の胸に去来するのは過去から続く消えぬ痛みと、気高き白き師子たる原に対する願い。そんな山縣の胸の内を知りながら原は山縣からしてみれば『嘘』のような『真実の言葉』を紡いだ。
  • すれ違っても君を思う

    ひまわりの咲く季節

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