概要
中国地方の西端に位置する県。本州最西端の地にして九州および韓国の玄関口である下関市(2018年12月18日に中枢中核都市認定)を有し、群馬県と同じく「県庁所在地よりも人口が多い市が存在する県」の1つ(山口市:約20万人、下関市:約26万人)に列する。公用語は山口弁。
お笑いコンビ『ラーメンズ』の小林賢太郎曰く「日本三大名字っぽい県名」(残り2つは石川県と宮崎県)。事実、山口姓は都道府県姓の中で一番多い。
主要データ(2019年5月1日現在)
略歴
1県の各方角で異なる4海域(東部:瀬戸内海、西部:響灘、南部:周防灘、北部:日本海)に接する珍しい臨海県であり、古来より内海と外海、さらには大陸(韓国および中国)を繋ぐ船舶・交易・外交の拠点として栄え、特に運搬船や捕鯨船の重要拠点であった下関は「西の浪華」とも称される活気を帯びていた。
現在は、県西部はセメント工業・漁業・造船業(代表格:宇部興産、林兼産業、三菱重工業下関造船所)、県東部は石油化学・重工業(代表格:日立製作所笠戸事業所、出光興産徳山事業所、マツダ防府工場)、県全体としては下関、山口、萩、岩国の4市を中心に豊富な歴史観光資源、海洋水産資源、森林景観資源を利用した観光産業を主力としている。
戦国期以前
古くは『古事記』『日本書紀』に記される仲哀天皇・神功皇后の熊襲征伐まで遡り、九州遠征の準備を整えるべく置かれた行宮(仮の皇居)『穴門豊浦宮』(あなとのとよらのみや、現在の忌宮神社)で7年間の執政に当たったとする記述が残されている。
平安時代中期、太宰府へ左遷される道中にあった菅原道真が周防国国司の土師信貞(菅原氏の先祖に連なる古代氏族)を頼って防府に寄港した際、「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ(訳:この地はまだ天皇のおわす都と繋がっている。叶うことなら、ここに住まいを構えていたい。)」と望んで身の潔白が証明される日を待ったが遂に叶わず、悲嘆の中で九州へと旅立った。その後、道真が太宰府で無念の生涯を終えたと知った信貞は逗留時の言葉を思い出し、翌年に道真の御霊を奉る社殿『松崎天満宮』を建立してその死を悼み、「扶桑菅廟最初」(扶桑最初の菅廟=日本初の天満宮)を創建の縁起とした。これが、現在の『防府天満宮』に当たる。
同じく日本最古を公称する天満宮に京都府の『生身天満宮』が挙げられ、こちらは創建当初から天満宮ではなく、その前身となった「生祠(いきぼこら、道真存命中に御影を写したとされる木像を奉った祠)」を創建の縁起としている。しかし、生祠の創建年を示す確実な記録資料に乏しく「伝901年」としている点から没年に霊廟へ、約53年後に神社(天満宮)へと変遷したとする沿革も正確性に欠け、そもそも「天神となった道真を祭祀する社」という天満宮の存在理由から見ても日本三古天神の天満宮創建年より遅く(防府天満宮:904年・太宰府天満宮:919年・北野天満宮:947年、生身天満宮:956年)、これらの点を総合すると「日本最古の天満宮」とは言い難い生身天満宮は「日本最古の菅原社」の姿が正しい。
平安時代末期、平清盛亡き後の平家一門を打破すべく後白河法皇の後ろ盾を得て挙兵した源氏一門の襲撃に遭って都落ちし、九州を目指して南下する安徳天皇一行を追った源義経が壇ノ浦の戦いで大勝利を収めたが、この時に安徳帝と共に入水した二位の尼(建礼門院徳子)の手によって三種の神器のうち草薙剣(=天叢雲剣)、八尺瓊勾玉の2つもまた関門海峡に没したとされ、これが今なお続く「皇室相伝の神器の信憑性」の大きな論点となっている。
戦国期~江戸期
陶晴賢率いる陶氏一党が謀反を起こして大内義長(豊後大友氏第20代当主大友義鑑の次男である大友晴英)を擁立、傀儡とするまでは前身の多々良氏を含む大内氏31代の所領として長い安寧と繁栄を極め、第31代(周防大内氏族のみの代数では第16代)当主大内義隆が京都の風雅な先進文化を積極的に取り入れた事から「西京」(さいきょう=西の京都)と称されるまでに発展し、日本各地に点在する小京都の中でも最古参の1つに列する。この頃、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが義隆を訪ね、本来であれば後奈良天皇、足利義輝両名に献上するはずだった親書や数々の贈物(置時計、望遠鏡、小銃、眼鏡など)を譲って布教活動の認可を受け、キリスト教の布教に努めた。
ちなみに、山口県下では「ザビエル」ではなく「サビエル」を正式公称としており、これはザビエルの故郷であるバスク地方(フランス・スペイン国境地域)でファミリーネーム「Xavier」を「シャビエル」と発音する事に由来する。また、ザビエルが義隆に譲った眼鏡が日本史上最古のものとされている他、廃寺となっていた大道寺を住居兼用の教会として与えられた事からこれが国内における常設教会および常設礼拝堂の元祖とされており、1991年に焼失した『山口サビエル記念聖堂』の初代聖堂はザビエルの生家『シャビエル城』に隣接する石造教会堂を模して建造されたものであるなど、キリスト教信仰の有無に関わらずザビエルとの縁を深く保っている。その縁で山口市は『日本で最初にクリスマスを祝った場所』ともされ、恋人と過ごすシーズンとして県下から日本全国へと広められている。
権謀術数の限りを尽くしてたった一代で大内氏、陶氏、尼子氏の所領を手中に収めた毛利元就の活躍も束の間、徳川幕藩体制の決定打となった関ヶ原の戦いで明暗が分かれ、豊臣政権存続を旗印に決起した石田三成・大谷吉継両名の要請に応じて毛利輝元が西軍総大将に就いたが、小早川秀秋の反旗によって劣勢を覆した東軍の大逆転勝利に終わり、まさしく敗軍の将となった。戦後に開かれた評定の結果、西国の要点を守護する外様大名の一家として辛くも毛利三家(毛利本家、吉川家、小早川家)の存続を許された反面、西軍に与した毛利本家の戦争責任に基づく賠償として従来の10国領(安芸・周防・長門・備後・出雲・石見・隠岐、伯耆・備中各半国)112万石から2国領(周防・長門)29万8480石2斗3合への屈辱的減封を余儀無くされた。
なお、約270年間の徳川政権下に存在した統治組織『江戸三百藩』において、通常は「新田藩」の呼称で区分される支藩のまた支藩に特例として「孫藩」(そんぱん)の認可を受けた唯一の藩『清末藩』が140年(長門新田または長府新田藩時代を合算すれば約200年)存在した。家禄1万石の陣屋構えという小藩ではあったが、藩政中期から財政逼迫の要因となりつつも学問第一を奨励したために長州諸藩の中でも「清末の本読み」とその名を轟かせ、第8代当主毛利元純(清末様)は第13代長州藩主毛利敬親(そうせい公)の名代として活躍した一方、四境戦争(第二次長州征伐)では石州口の守備に当たって浜田藩を含む幕府軍の侵攻を退けた。
幕末期~近現代
明治維新に至る国政改革に大きな足跡を残した4大勢力『薩長土肥』の一角を担い、木戸孝允、高杉晋作、大村益次郎、吉田松陰、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、井上馨など多くの幕末志士を輩出した。小説家の司馬遼太郎は、自身の著書『竜馬がゆく』の一節で彼らを生み育んだ風土的気質を坂本龍馬の独り言という形で「長州の怜悧(=頭脳明晰)、薩摩の重厚(=質実剛健)、土佐の与太(=軽妙洒脱)というのは面白い。もし一男子にしてこの三つの特質を兼ねている物があれば、それは必ず大事を成す物だ。」と綴っており、また近代日本の政治中枢で多大な影響力を堅持した背景もあって、2017年時点において内閣総理大臣経験者を9人(うち3回以上の再任経験者4人)送り出している。
群馬県の「未開の地」ネタを風刺した漫画作品『お前はまだグンマを知らない』109話において「戦前戦後合わせると歴代総理輩出トップはヤマグチ県!だが戦後だけで言えば---グンマがダントツで最多なのだ!」とする記述があるが、下記一覧にある通り山口県が輩出した戦後総理大臣経験者は4人であり、群馬県の戦後総理大臣経験者4人(福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫)と同率になる。
ただし、山口県総合政策部が「(歴代総理大臣の)出身地は原則として、戦前は<出生地>を、戦後は<選挙区>を記載」とする首相官邸の規則に従って菅直人(出生地:山口県、本籍地:岡山県、選挙区:東京都)を山口県出身の総理大臣から除外した一覧表『8人の総理大臣』(2013年2月時点)に照合すれば、現在の菅は「東京都出身の総理大臣経験者」に分類されるため、選挙区が山口県の戦後総理大臣経験者数は3人となる(同様の理由で群馬県に縁を持つ鈴木貫太郎も本籍地が大阪府、選挙区が東京都である事から作中で「次点」と紹介されるに留まり、勘定には含まれていない)。
つまり、菅を入れても4人で同率、菅を除いた3人でもその差はわずか1人でしかなく、確かに数の上では勝ってはいるが「グンマ県がダントツで最多=他の追随を許さない圧倒的大差」と言わんばかりの主張はいささか曲解を帯びており、総理大臣の輩出数比較について「総数」ではなく「戦後」という限定条件を課している点からも『お前はまだグンマを知らない』の根幹となるグンマ支上主義に合わせているに過ぎない。
<内閣総理大臣経験者一覧>
戦前・戦中就任者
戦後就任者
福岡県と広島県の大都市に挟まれている割には両県に比べて発展速度は一歩及ばず、政治的理由によるインフラ整備の充実から道路事情が極めて良好である事が却って災いし、物流・人材・雇用が県内に滞留することが困難になるというジレンマを抱えており、近県からは「通過の県」とされてしまう認識が強い。他方、昭和時代から「上関原発問題」と「岩国米軍基地問題」、即ち原発建設と在日米軍の可否を巡って揺れ動く巨大な国政問題を同時に、且つ現在進行形で歴代知事が背負い続ける唯一の県でもある。テレビ局では民放系列局3局県のひとつで、超保守県のわりにフジテレビ系が無い。
ちなみに、一度は2012年春季の出店を計画していたものの「物流ネットワークの整備不十分」を理由に断念したカフェチェーン『スターバックス』が2017年8月18日に山口市での営業を開始し、開店に至る経緯から「県庁所在地で唯一スタバが無かった山口市」「都道府県庁所在地最後の出店」(この時点で下関市に3店舗、山陽小野田市に1店舗を展開)の文言で全国を賑わせた。
関連イラスト
- 山口県旗
- 長州毛利家定紋『一文字に三つ星』
- 県公認ゆるキャラ『ちょるる』
- 九州・本州連絡道路橋『関門橋』
- 伝統工芸品『大内雛』(おおうちびな)
- 山口名物『夏みかん色のガードレール』
本腰を入れて活動しているのは岩国市出身のハクジャオーと『ユウグレイト』、周南市出身の『聖獣天神リュウガ』、下関市出身の『海峡戦士タイガーフーク』の4名。
『うちのトコでは』に登場するキャラクターの1人。「長州の怜悧」を体現する結束力や組織力、理知的な礼儀正しさを見せ、一度でも仲間と認めれば最後まで信じ抜く反面、「他所は他所、ウチはウチ」という冷たさも併せ持つ徹底的な合理主義者。
『都道府県擬人化マンガ 四十七大戦』に登場するキャラクターの1人。他県に比べて相当の歴史を持つ、いわゆるショタジジイ。
山口県出身、または縁のある著名人
人数膨大につき外部該当記事を参照の事。
山口県の名物
- フグ:下関では「ふく」の呼称にこだわる。
- ういろう:山口県では「外郎」を公称し、わらび粉で製造する。
- 夏みかん:廃刀令で失職した士族救援策として定着。砂糖漬けが名物。
- 瓦そば:香ばしく焼いた茶そばを甘つゆにくぐらせ、肉や錦糸卵などの具と食す。
- 練り物:弾力凄まじい焼き抜き蒲鉾と焼き竹輪で有名。
- 鯨料理:近代捕鯨発祥の地にして鯨食文化の一大拠点。
など
山口県の名所
- 松下村塾:長州志士の聖地。
- 功山寺:維新の幕開け『功山寺挙兵』の舞台。
- 東行庵:梅処尼(剃髪して尼僧となったおうの)が生涯を捧げて供養を行った高杉晋作の墓所。
- 角島大橋:自動車CMロケの定番地。
- 瑠璃光寺:大内文化の象徴『瑠璃光寺五重塔』(国宝)は「日本三名塔」の1つに列する(京都醍醐寺・奈良法隆寺・山口瑠璃光寺)。
- 秋吉台・秋芳洞:いずれも国内最大のカルスト台地と鍾乳洞。
- 毘沙ノ鼻(びしゃのはな):本州最西端の岬(北緯34度6分39秒・東経130度51分37秒)。
- 錦帯橋:江戸時代に岩国藩により錦川に架橋された木造アーチ橋で、「日本三名橋」の1つに列する(東京日本橋・長崎眼鏡橋・山口錦帯橋)。
- 関門橋:昭和48年11月に開通した関門海峡を跨ぐ海上橋。創建当時は日本最長の橋であり、後年に諸方で建設される長大海上連絡橋の先駆けとなった。
- 巌流島:関門海峡に浮かぶ小さな無人島。江戸時代に小倉藩により行われた巌流島の決闘の地として名高い。
- 関門トンネル:鉄道、自動車道、歩道の3道全てが「海底の岩盤下にある」という珍しい立地条件にあり、特に人道は「県境(山口県-福岡県)またぎスポット」として有名。
など
山口県を舞台とした作品
映像作品
映画
- 人間魚雷回天(1955年)
- 新仁義なき戦い 組長の首(1975年)
- 男はつらいよ 幸福の青い鳥(1986年)
- 釣りバカ日誌12 史上最大の有給休暇(2001年)
- チルソクの夏(2004年)
- 長州ファイブ(2006年)
など
アニメ
- カッタ君物語(1995年)
- リーンの翼(2005年)
- マイマイ新子と千年の魔法(2009年)
など
文筆作品
小説
- 街道をゆく 長州路(1975年、司馬遼太郎)
- ぬかるみの女(1979年、花登筺)
- 機関車先生(1994年、伊集院静)
- ハードロマンチッカー(2001年、具秀然)
- マイマイ新子(2003年、高樹のぶ子)
- 四日間の奇蹟(2003年、浅倉卓弥)
など
漫画
- バンパイヤ 第一部(1966年、手塚治虫)
- おれは直角(1973年、小山ゆう)
- 風の中の案山子(1983年、なかはらかぜ)
- 瞬きもせず(1987年、紡木たく)
- 緋が走る(1992年、原作:ジョー指月・作画:あおきてつお)
- これが私の御主人様(2002年、原作:まっつー、作画:椿あす)
- うちのトコでは(2010年、もぐら)
- バイトのコーメイくん(2012年、カレー沢薫)
- 都道府県擬人化マンガ 四十七大戦(2017年、一二三)
など
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