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毛利元就

もうりもとなり

毛利元就とは、中国地方の戦国武将。一介の国人領主から、巧みな策略や大胆な駆け引きをもって、中国地方の大半を手中に収める大大名にまでのし上がった。(1497年-1571年)
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概要編集

生没:明応6年3月14日(1497年4月16日) - 元亀2年6月14日(1571年7月6日)

別名:松寿丸(幼名)、少輔次郎(通称)、多治比元就

官位:従四位上、陸奥守

父母:毛利弘元(父)、福原広俊娘(母)

兄弟:毛利興元(兄)、北就勝、相合元綱

子 :毛利隆元五龍局吉川元春小早川隆景穂井田元清小早川秀包


室町時代後期から戦国時代において活躍した安芸の国人領主・戦国大名鎌倉幕府創業の功臣・大江広元の子孫。安芸の小規模な国人領主から、中国地方のほぼ全域に至るまで領土を拡大させ、中国地方のみならず戦国時代を代表する名将の一人として評価されている。とりわけ策略家・戦略家としての評価は非常に高く、厳島の戦いなどで見せた用意周到かつ緻密に計算された策略の数々から、後世「謀神」と称される事もある。


他方で家臣や客人に対して振る舞った「酒と餅」の逸話や、正室・妙玖に対する想いなどにも表れているように、家族や家臣、それに周辺国人への細かな気配りも忘れない人物でもあった。晩年、隆元を始めとする息子達に宛てた「三子教訓状」はその最たるものであり、それ以外にも元就の苦労性な一面を示す逸話も数々残されていたりもする。その背景には早くに父母を失い、長じてからも兄弟たちと辛い形での死別を余儀なくされた、苦い経験の数々の影響もあると言われる。


厳島神社への参拝の折の逸話からも窺えるように、若かりし頃は天下獲りへの高い理想も持ち合わせていた元就であったが、毛利氏の勢力拡大につれてその心境も徐々に変化していったのか、最晩年になると「天下を競望せず」との意思を孫の輝元や息子達に示しており、ひたすら家名の保全に努める事を是とした。その意思は元就没後の毛利氏の動向にも、多分に影響を与えていく事となるのである。


経歴編集

青年期編集

明応6年3月14日、安芸の国人領主・毛利弘元とその正室・福原氏との間に次男として誕生。同母兄に毛利興元、異母弟に相合元綱などがいる。幼名は松寿丸

元就が生まれて間もない頃、毛利氏は室町幕府と大内氏との勢力争いに巻き込まれ、極めて厳しい状況下にあった。こうした中で父・弘元は若くして隠居し、元就らと共に多治比猿掛城にて暮らすようになるが、それから間もなく母である福原氏が、さらに10歳の頃には弘元もまた酒害によって亡くなってしまう。加えて、家臣であるはずの井上氏によって城までも追い出されたりと、その幼少期は苦難に次ぐ苦難の連続であった。

その様な大変苦しい境遇から「乞食若殿」と貶されていた松寿丸であったが、決して味方もいなかった訳ではなかった。とりわけ養母である杉大方は、困窮する松寿丸の生活を支えたのみならず彼の宗教観に至るまで、生涯に亘って大きな影響を与える存在ともなった。


永正8年(1511年)に兄・興元の許可の下、元服し分家して多治比元就と名乗った。しかし興元が永正13年(1516年)に急死したため、彼の遺児でわずか2歳の新当主・幸松丸を後見する事となる。さらにこれを好機と見た安芸の分郡守護・武田元繁が、復権を図るべく当時毛利氏と同盟を結んでいた吉川氏の領地へと侵攻。

これを受け、元就は当主代理として出陣する。周辺の国人衆も従え圧倒的多数の武田軍に対し、毛利・吉川連合軍は巧みな用兵と粘り強い抗戦でこれを迎え撃ち、遂には元繁自ら渡河を試みようとしたところを、毛利軍の弓隊による斉射により辛くも討ち取る事に成功したのである(有田中井手の戦い)。

後世、「西国の桶狭間」とも呼ばれるこの合戦は、初陣であった元就の名を一躍知らしめ毛利氏の発展の切っ掛けになったと同時に、安芸武田氏にとってはその後の衰退に繋がる出来事ともなった。


家督争い編集

この少し後に、元就は吉川氏より正室・妙玖を迎えており、彼女との間には長男の毛利隆元を始め5人の子を儲けている。政略結婚ではあったものの生涯仲睦まじく暮らしたとされ、彼女の存命の内は側室を一人も置かなかったという。妙玖亡き後に記された隆元宛ての手紙や「三子教訓状」などにおいても、在りし日の彼女を偲ぶ記述がいくつも残されている。

一方、この頃毛利氏はそれまで従属してきた大内氏から、山陰地方で勢力を伸ばしつつあった出雲の尼子氏に鞍替えしており、元就もその先鋒として当主の幸松丸と共に、大内方の拠点の一つであった鏡山城の攻略戦に参加。ここでも持ち前の知略により戦功を上げているが、その直後に幸松丸が9歳で突如病死してしまう。

この事態を受け、志道広良口羽通良の父)ら重臣の推挙により元就が、毛利氏第12代当主の座に就き毛利元就と名乗った。分家の人間とはいえ毛利氏直系の男子であり、かねてより家督継承の有力候補と目されていたのも、元就の家督継承にとって追い風となった。時に大永3年(1523年)、元就27歳の出来事であった。


ところが、これを快く思わない坂広秀渡辺勝ら毛利家臣団の一部は、尼子氏重臣の亀井秀綱の支援の下、異母弟の相合元綱を後継者として擁立(一説では尼子氏から養子を迎え、元綱がその後見を務めるつもりであったとも言われる)しようとした。これに対し元就は先手を打って元綱とその一派を殲滅し、これを鎮圧する事に成功する。

とはいえ元就にとって、腹違いとはいえ弟を討たねばならなかったこの一件は心に深い傷を残すものに他ならず、後年息子達に宛てた「三子教訓状」において兄弟の絆を大切にするよう諭したのも、この時の苦い経験が背景にあったからこそとも言われている。


この事件を経て、毛利氏は尼子氏との関係を断ち大内氏に再び従属。その後は前当主・幸松丸の外戚として、かつて毛利氏にも度々干渉を加えて来た高橋氏を討滅する一方、かねてからの宿敵であった宍戸氏とは婚姻関係を通じて関係の修復に当たり、さらに熊谷氏、天野氏などといった有力国人たちとも誼を通じるなど、安芸国内での盟主としての地位を着々と築く事となる。


吉田郡山城の戦い~月山富田城の戦い編集

そんな中、天文8年(1539年)に大内氏が北九州での戦を一段落させた事で、一時は和睦状態にあった尼子氏とも再び緊張が走るようになる。安芸国内でも尼子氏に不利な情勢に傾きつつある中、毛利氏もその渦中に巻き込まれる形で、天文9年(1540年)に尼子詮久を大将とする3万もの大軍の侵攻を受ける事となった。

これを受けて元就は一族郎党、さらに城下の農民や商人らも総出で籠城の構えを見せた。その軍わずか3000程度でしかなかったものの、宍戸氏の助力や伏兵戦術などを駆使して尼子軍の攻撃を凌ぎ切り、やがて到着した大内氏の援軍も加わった事で、遂に尼子軍を撤退に追い込む事に成功したのである(吉田郡山城の戦い)。

この合戦の一部始終は、元就自らの手で「毛利元就郡山籠城日記」として記録されており、この日記を通して報告を受けた幕府からはその戦功を高く評価され、後年の中央政権との繋がりにも寄与する事となった。


この戦いでの勝利を受け、毛利氏はさらに尼子方に与していた安芸武田氏をも滅ぼし、安芸国内での優位を確かなものとした。吉田郡山城の戦いから程なくして、尼子氏の先代当主であった尼子経久が病没した事もあり、大内氏は天文11年(1542年)に入り、いよいよ尼子氏の本国・出雲への侵攻を開始する事となる。

元就も大内方としてこの遠征に加わっているが、尼子氏の籠る月山富田城での攻防に1年以上もの間手こずった大内軍は、やがて大内方であったはずの国人衆の離反などもあって撤退を余儀なくされるという、先の吉田郡山城の戦いとは真逆の構図が展開された。

この撤退の折、殿軍を命じられた毛利軍は尼子軍からの激しい追撃を受けながらも、渡辺通の犠牲などもあって命からがら、吉田郡山城への帰還を果たしたのであった。


この手痛い敗戦により、義隆はそれまでの領土的野心を喪失し文治政治に傾倒するようになる。大内氏の軍事的な後ろ盾に頼ってきた毛利氏にとって、その方針転換はこれまでのような助力を得られなくなる可能性を孕んだものでもあり、これ以降元就は強引とも取れる手段を使ってでも、大大名に頼らずとも自立出来る道を模索していく事となるのである。


戦国大名への道編集

月山富田城の戦いの翌年、天文13年(1544年)に元就は三男・徳寿丸を、強力な水軍を保有する安芸南部の国人・竹原小早川氏へと養子に出している。毛利氏と竹原小早川氏は予てから良好な関係にあり、同時期には尼子方の国人からの侵攻を受けた竹原小早川氏に対し、大内軍と共に救援に赴いた事もあった。この戦の最中に徳寿丸は元服し、小早川隆景を名乗る事となる。

翌天文14年(1545年)に養母の杉大方、そして正室の妙玖を相次いで亡くしたのを経て、天文15年(1546)年には家督を嫡男・隆元へ譲っている。もっともこの時点ではまだ、毛利家中の実権はほぼ元就が握っている状態であった。


天文16年、隆景を竹原小早川氏に送り込んだのに続いて、今度は次男・元春を妙玖の実家・吉川氏に送り込んでいる。この頃吉川家中では当主である吉川興経や新参の家臣団と、吉川経世らを始めとする一族・重鎮との間で深刻な対立が発生しており、元春の養子入りは反興経派らの申し出を受けてのものであった。結果興経は強制的に隠居に追い込まれた後、天文19年(1550年)に息子共々暗殺され、新当主・吉川元春の誕生に繋がっていく。

さらに同年には大内氏と共同で、沼田小早川氏の後継問題にも介入。当主・小早川繁平が盲目となった事に起因する家中の分裂・混乱を利用し、尼子氏との内通を口実に繁平を居城から追放の上、出家に追い込んでいる。そして繁平の妹(問田大方)と隆景を結婚させ、彼に沼田小早川氏の家督を継承させたのである。

繁平の後見役であった田坂全慶の反発も誅殺という形で収め、これにより両小早川氏の再統一がなされた。山陰地方に勢力を持つ吉川と、瀬戸内海に勢力を持つ小早川という二つの勢力を手中にし、ここに後の「毛利両川体制」の基礎が構築される事となる。


残る懸案は、家中において長年にわたり専横を極めていた重臣・井上元兼とその一族の処遇であった。天文19年7月、元就は遂に井上一族の粛清を断行し、元兼やその子息・叔父に至るまで討滅せしめた。この直後には家臣団に対し、毛利氏への忠誠を誓わせる起請文を出させており、毛利氏はそれまでの国人当主の盟主的存在から、戦国大名への脱皮に向けてその基礎を着々と固めていく。


厳島の戦い編集

天文20年(1551年)に発生した大寧寺の変は、老境に入って久しい元就にとっても大きな転機となった。この事変を主導し、主君・大内義隆を自害に追い込んだ陶隆房とは以前から同調姿勢を取っており、元就はこの事変に乗じて佐東銀山城などを手中に収め、隆房からも安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えられていた。

ところが、これを背景に毛利氏がさらなる勢力拡大を図ろうとすると、一連の戦の後始末のもつれも絡んで、元就と隆房との間には俄かに確執が生じる事となる。加えて、嫡男の隆元が当初より陶氏への不信感を抱いていた事もあり、やがて石見の吉見正頼の討伐とそれにまつわる隆房の違約をきっかけに、元就も隆房との対決姿勢を鮮明に打ち出すのである。


とはいえ、この頃の毛利軍は多くて5000を動員するのが精一杯であり、隆房率いる大内軍3万と真っ向から立ち向かうには心許ないものがあった。そこで元就は大内氏内部の分裂と、それに伴う軍事能力の低下を画策。結果、隆房とその家臣・江良房栄との離間を図り、隆房自らの手によって房栄を謀殺させる事に成功する。

さらに折敷畑の戦いにて毛利軍が陶軍を打ち破るに至り、隆房改め晴賢は吉見氏との和睦を成立させ、毛利氏との戦闘に全力を傾ける事となる。対する元就は、海路の要衝である厳島の宮尾城を整備すると共に、陶軍の矛先が厳島に向くよう間者を駆使し、虚報を流すなどの工作を展開。果たしてその目論見通り、晴賢は厳島の占領に乗り出す事となる。

晴賢ら陶軍が厳島に上陸したのを受け、毛利軍は村上水軍の助力を借り暴風雨をついて密かに厳島に上陸、陶軍に対する奇襲を敢行する。狭い島内では陶の大軍も思うように動けず総崩れとなり、島からの脱出を試みた晴賢も最後には自刃して果てた(厳島の戦い)。


この勝利の余勢を駆って、毛利氏は晴賢の死で急速に弱体化しつつあった大内領への侵攻を開始し、弘治3年(1557年)には当主・大内義長を自害に追い込む(防長経略)。これにより毛利氏は、周防・長門の二カ国を始めとする大内氏の旧領の大半をも手中に収め、元就は61歳にして一気に大大名へとのし上がる事となった。


尼子氏との抗争編集

一連の防長経略が一段落したのを受け、元就は家督と実権を完全に隆元へ譲り、隠居の身となった。ところが隆元は政権の移譲を望まず、結果として引き続き元就が実権を握る体制が続く事となる。「三子教訓状」を記し、兄弟間の結束と毛利両川体制の確立を図ったのもこの頃であった。


ここで時間をやや遡るが、弘治2年(1556年)の尼子氏の攻撃により石見銀山の支配権を失っていた毛利氏は、その後も降露坂の戦いなどで敗退を重ね、なかなか銀山の奪還には至らなかった。ところが永禄3年(1560年)に尼子氏の当主・晴久が急死するや、後を継いだ息子の義久はそれまでの対決路線を放棄し、室町幕府将軍・足利義輝の仲介の元で毛利氏と和睦を結ぼうと試みる。

この動きは元就にとって願ってもみない好機であった。元就は和睦の条件として「尼子氏の石見への不干渉」を突き付け、これに義久が応じた結果石見における尼子方の国人は孤立を余儀なくされ、やがて毛利方への鞍替えや撤退などが相次ぐ事となった。こうして石見銀山を取り戻し、毛利氏にとって有利な状況が整ったところで、元就は和睦を一方的に破棄し永禄5年(1562年)より本格的に出雲侵攻に打って出た。


その最中、永禄6年(1563年)に嫡男・隆元が不慮の死を遂げる。既に当主として内政面で堅実な成果を出しつつあっただけに、隆元の死は元就にとっても極めて辛いものであったが、その後も元就は尼子の討滅こそが隆元への何よりの追善と将兵を鼓舞し、やがて尼子方の重要拠点の一つである白鹿城を陥落させ、尼子氏の本拠・月山富田城の包囲にも成功した。

かつて大内氏の攻略失敗をつぶさに目の当たりにしているだけに、元就はこの包囲戦では敢えて無理な攻撃は避け、尼子家中の内部分裂や兵糧の枯渇を狙った様々な策を講じ、徐々に尼子軍の士気を低下させていく方針を取った。果たして永禄9年(1566年)11月、遂に月山富田城は陥落を迎え、尼子義久も降伏の後元就によって命を保証され、安芸にて幽閉される事となった。


最晩年編集

大内氏に続いて尼子氏を降した元就は、遂に中国地方最大の戦国大名となった。だがその後も、た山中幸盛ら一部の尼子遺臣が、一族の尼子勝久を擁し根強い抵抗を続けており、彼らによる尼子氏再興運動は元就の死後もしばらくの間、毛利氏を悩ませる事となる。


一方、北九州においては豊後の大友義鎮(宗麟)との間で、大内氏の旧領であった豊前・筑前の二カ国を巡って永禄年間に入ってから攻防が続いていた。筑前には大内氏の富の源泉となっていた博多の町もあり、その事も毛利氏がこの二カ国を押さえておきたい理由の一つとなっていた。

当初は豊前の門司城を舞台に、4年もの間一進一退の攻防が繰り広げられていたが、やがて出雲侵攻が始まるとそちらに注力するため、一旦は幕府の仲介により大友氏との間で和睦を成立させている。しかし尼子氏が降伏すると再び大友氏との対決に踏み切り、今度は筑前の多々良川付近で長期に亘ってにらみ合いを続ける事となる。

戦局が膠着の一途を辿る中、宗麟は大友氏の客分となっていた大内氏一門・大内輝弘を密かに周防に送り、旧領回復の兵を挙げさせることで毛利軍の後方攪乱を図った。折悪しく前述の尼子再興運動も盛んになりつつあった時期なだけに、元就もここに至って北九州からの撤退を余儀なくされ、結果大友氏に北九州の覇権を譲る形となってしまった。

とはいえ、北九州の戦線を放棄したのと引き換えに、大内輝弘の乱も尼子氏再興運動もきっちりと収拾を着けており、依然として毛利氏の中国地方における優位が揺るぐ事はなかった。


それ以前より度々体調を崩しがちとはいえ、齢70を過ぎてなお子を儲け、戦場にも度々出ていた元就だったが、元亀2年6月14日、吉田郡山城にて天寿を全うした。父や兄の早逝などもあり、生前は極力酒を控え健康に気を配っていたのも、75歳という当時としては異例の長寿に繋がったとされる。

元就の死後、彼の後見を受けていた嫡孫・輝元がその後を継ぎ、二人の叔父たちと共に毛利氏を支えていく事となる。


逸話編集

三本の矢編集

毛利元就に関する、最も有名な逸話のひとつとされる。


死期の近付いたある日、元就は三人の息子(毛利隆元吉川元春小早川隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。

元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけたという。


……と言うことになっているが、実際は長男の隆元が元就より8年も前に死亡しており、また次男の元春もこの時出雲にて在陣中であるため、どう考えてもありえない図式である。「三子教訓状」などを通して、常々兄弟や一族間の結束を説いていた事から、これに由来した逸話であろうと現在では考えられている。

とは言え、説話もしくは教訓話としては人口に膾炙しており、有名な所ではサッカーチームサンフレッチェ広島がこの逸話にちなんで命名されている(フレッチェはイタリア語で「矢」を意味し、ここに日本語の「三(サン)」を合わせている)。


百万一心編集

吉田郡山城の戦いの後、元就は城郭拡張に向けた普請に取り組んでいた。その際、人柱の代わりとして用いられた石碑に刻まれていたとされるのが、この「百万一心」という言葉である。

この石碑では、百の字の一画を省いて「一日」、「万」の字を書き崩して「一力」としており、縦書きにすると「一日一力一心」とも読めるようになっている。そこには「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」という意味合いが込められており、これを通して「国人の結束によって何事も成し得る」という事を訴えたとされる。


また上記とは別に、次のような逸話も伝わっている。

12歳の頃に松寿丸(元就)が厳島へ参拝した折、巡礼の少女と出会った。彼女の母は人柱に選ばれ死に別れており、松寿丸はその身の上に同情して吉田郡山城に連れ帰った。その後元就が当主となった後、本丸の石垣の修復に難航した普請奉行は人柱を埋める事を考え、元就に助けてもらったお礼として先の少女がその役目を自ら引き受ける事となったが、元就はそれを固く禁じ「百万一心」の文字を石に掘って人柱の代わりとするよう、普請奉行に命じた。この事を通して元就は、人柱に頼らず人命を尊び、皆で心を力を合わせて事に当たるよう皆に説いたのである。


この石碑は19世紀に長州藩士によって発見されたと言われており、その拓本は元就の祀られている豊榮神社(現・山口市)に奉納され、後に昭和年間に入ってこれを元に模刻した石碑が郡山城跡内に建てられている。しかし実物自体はその後の調査でも発見されておらず、また毛利家文書を始めとする一次資料にもこの逸話に関する記載が見当たらないなど、この事から観光パンフレットなどでは「郡山城最大の謎」とも記されている。


書状にまつわる逸話編集

彼の書いた書状が何通か現存しているが、現代人の目からしてもかなりの達筆である。

そのためか、後述のNHK大河ドラマ『毛利元就』では、題字として彼の直筆の字がそのまま採用されている。

実際にスタッフロールにも『題字 毛利元就』と載っており、大河ドラマに本人の名がスタッフロールに流れたのは今のところ彼一人のみである。


そんな元就の書状であるが、そこには「三子教訓状」等のように同じような内容が繰り返し記されているものも多く、研究者からは「苦労人であったためかも知れないが説教魔となっている」「長くてくどい」と評された事もある。


関連タグ編集

謀神 高性能じいちゃん 松寿丸 厳島神社 中国勢 武将 中国三大謀将 毛利家

妙玖(正室)

毛利隆元吉川元春小早川隆景…三本の矢

穂井田元清 小早川秀包 五龍局

毛利輝元 吉川広家 毛利秀元(孫)

尼子経久 大内義隆 陶晴賢


創作編集

毛利元就(毛利元就(大河ドラマ)編集

演:中村橋之助/岩渕幸弘(幼少時代)/森田剛(少年時代)

幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。幼くして両親と死別した影響で不良少年となったが、養母・杉の方と衝突しながらも共に暮らすうちに、真面目な青年へと成長する。

跡目争いを経て家督を継いだ後は、小国の領主ながら大国・尼子と大内の間を渡り歩き、他国に振り回されて家族や国を犠牲にされたくないとの思いから、知略を駆使していくうちに、毛利家の勢力を次第に拡大させていく。

愚痴が多く、世間でも「ボヤキの元就」と揶揄されている。また、父と兄を酒の害で亡くしているため酒は飲まず、酒席でも好物の餅を周囲に勧めるなどしている。

母が側室の存在に苦しんでいるのを見て育ったため、元就は正室・美伊の方を一途に愛し、側室も美伊の死後に子供たちの勧めでようやく迎えた。


毛利元就(戦国無双編集

もうりとたちばな


CV:石川英郎

史実元就が身内を重んじた一面を強調したキャラクターで、癒し系に描かれている。


詳しくはこちら→毛利元就(戦国無双)


毛利元就(戦国BASARA編集

何の変哲も無い


CV:中原茂

史実元就の身内以外に冷酷な一面を強調したキャラクターで、悪役的描写が多い。


詳しくはこちら→毛利元就(戦国BASARA)


毛利元就(戦国ランス編集

毛利元就


呪い憑きの毛利家の老人国主。一人称は「儂(わし)」。


豪快で戦と宴会が好きな「わんぱく爺」。元々は普通の人間だったが、妖怪にかけられた呪いにより人間離れした巨体と力を持ってしまった。その力に惹かれた多くのチンピラを部下にし、周囲の国を侵略した。歳の離れた3人の娘、毛利てる吉川きく小早川ちぬがいる。毛利の一般兵(モブ)は基本的にオレンジのモヒカンで、元ネタは『北斗の拳』。


呪い憑きの状態では戦闘性能が特殊で、元就隊は戦場に出撃すると孤軍扱い。反撃を受けない上に固定200(人撃破)ダメージを与える「元就パンチ」を用いる。呪いが解けた後も攻撃力が高く、隊の強さは脅威的。


明らかに他の作品で見られる知的イメ-ジの欠片もないが、これは知的イメージで登場させては面白くないからという理由で、こうなった。


劇中寿命が来て幽霊になってしまうが特に問題はないらしい。


ランス10では成仏したらしい。


またランスとてるの息子の毛利元就(JAPANの大名は当主が名前を継ぐのが決まりなので特に意味はない)が登場。こちらは極めて毛利らしい凶暴で好戦的な少年。

呪い付きで母と叔母が管理している三本の矢が折れなければ腕が千切れようが再生可能である。

毛利の血筋らしく頭の出来はイマイチで結構なおバカ。



毛利元就(戦極姫編集

共に歩む人


CV:草柳順子


毛利家の女性当主。当主としての自覚に乏しく、気弱でおとなしい性格。猫好き。戦事には長けているものの、本人は戦を好んでいない。PC版「戦極姫3」では四人の子が居る母親になっており、当主の座を長女の毛利隆元に譲っている。


毛利元就(戦国大戦編集

毛利さんちが

(左側が青年期の毛利元就。右側は三男の小早川隆景


「15XX五畿七道の雄」から参戦。

青年期と老年期の姿でそれぞれ1枚ずつ存在する(「戦国大名」版も含めれば3枚)。


青年期は当主就任~厳島合戦直前までの頃の姿。

群雄伝では、当初は野心を抑えきれない自信過剰な人物像だが、尼子経久との戦いを通して戦国大名としての冷徹さを身に着けていく。


老年期は厳島合戦~死去までの頃の姿。

一般にイメージされる謀神毛利元就に近い。事前の準備と工作により確実に勝利を収める老獪な人物だが、嫡男・毛利隆元の死を契機に後継者たちの育成に力を注ぐ。

持ち計略「謀神の掌上」は莫大なコストと相応の効果時間を誇る陣形だが、発動時のボイス「我がをもって敵を切り裂く」が謀神渾身のギャグと受け止められネタにされた過去がある。


毛利元就(殿といっしょ編集

毛利さん(左端)

三矢の教えを息子たちに伝えようと必死な教育パパ。あまりに教育熱心すぎて、教育のために身を滅ぼしているフシすらある。


毛利元就(信長の忍びシリーズ)編集

三男・隆景曰く「稀代の謀略家」であり、人を見る目に長けている。斎藤道三の没後、諸国を漫遊していた明智光秀に対し「貴殿の心にはが飼われている」と指摘している。


毛利元就(御城プロジェクト)編集

御城プロジェクト:RE 敵兜「毛利元就」

という敵として登場。三つの眼と三本の矢を収納する矢筒を持つ。重装備で着込んだずんぐりむっくりな体型に加え、ガスマスクを被ったかのような顔と煙突で、スチームパンクめいた出で立ちをしている。イベントと本編の両方に登場。「謀神」の異名通り、雑魚を掃討した主人公をだまくらかし、知略で追い詰めるも敗北、その後はイベントで様々な謀略を張り巡らし、何度も主人公を襲撃してくる。自身の住んでいた城である吉田郡山城の事は一応気に入っており、兜の内で「どの城娘が一番か」談義をした時は彼女が一番であると主張している。

非常に移動速度が遅いが、それを補って余りある能力として、逸話にちなんだ「三本の矢」を一度に放つ攻撃を持つ。これの何が嫌らしいかと言うと「範囲内に目標が三つあればそれら全てを攻撃する」点にある。遠距離城娘はもちろん、蔵やトークンすら狙われるため、蔵の防衛が重要なイベントでは撃破に手間取るとポンポン蔵を破壊される大惨事に見舞われる。更に殿すら射程に収めれば攻撃対象にするので、どれだけ城娘で固めようと一定範囲内まで近づかれたら殿がついでのように撃ち抜かれて詰む。流石は謀神。


毛利元就(ラヴヘブン編集

乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはRでの登場。

異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。

白(銀)髪をぱっつんと切りそろえ、一つ結びにしている。筆まめで心配性な一面も持ち合わせ、実は隠れ健康オタク。餅をテーマにしたリメイクもされており、お節を完食し、お雑煮を3杯もおかわりした上で主人公と古今東西お餅対決を開催した。


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Motonari Mouri

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