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毛利元綱

もうりもとつな

戦国武将の一人。安芸国にいた領主の一人

その生涯

生誕は不明で元就興元とは腹違いで3男にあたる。
本名は毛利元綱だが治めていた領地から相合(あいおう)元網とも言われる。

知略で名をとどろかせた兄とは対照的に武勇で優れていたといわれ「今義経」の異名を持っていた

1517年、西の桶狭間と言われ、兄の初陣でもあった有田中井手(ありたなかいで)の戦いで
安芸守護・武田信繁を討ち取る(共同戦果?)活躍を見せる。
だが、1523年、当主で甥の幸松丸が死去すると元就が当主になることになった。

しかし、長幼の順にも問題はなかったにもかかわらず一部の家臣が元綱を当主に据えようと画策する。
これは、元就への警戒を強めた尼子経久と家臣の亀井秀剛(亀井玆矩の義父)
の計画だったとされる。
元綱は元就を暗殺しようと試みるも先手を打たれ、自慢の武勇をもって反抗するもむなしく
体を数本の槍で刺されるという壮絶な最期を遂げた。

また、担ぎ上げた家臣は元就によって粛清されている。
担ぎ上げられただけであったといわれ、元就との仲は悪いどころかむしろ良好で
戦国が生んだ悲劇の一つであった。

子は一人いたが幼かったため許されており、のちに家臣となっている。

大河ドラマ「毛利元就」にも登場。

関連項目


中国勢 戦国武将 毛利元就 尼子経久

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