生涯
安芸の国人領主・毛利弘元の三男として生を受ける。長兄の興元、次兄の元就とは母親が異なる庶子であり、相合(現・広島県安芸高田市)を領地として与えられていた事から相合(あいおう)元網とも称していた。
知略で名をとどろかせた兄・元就とは対照的に武勇に優れ、「今義経」の異名を取ったとも伝わるが、その元就とは仲が良かったとも言われており、永正14年(1517年)の有田中井手(ありたなかいで)の戦いでは、この戦いで初陣を飾った元就と共に安芸の分郡守護・武田元繁を討ち取ってもいる。
そんな両者の関係も、大永3年(1523年)に時の当主・幸松丸(長兄・興元の嫡男)が急死した事で大きな変化を余儀なくされる。分家の人間とはいえ、正室所生の子でもあった元就が重臣らの推挙によって家督を継ぐ事となったが、家臣団の中には坂広秀や渡辺勝らのようにこの決定に不満を持つ者も少なからずあった。
そして反元就派が旗頭として担ぎ上げたのが、他ならぬ元綱であったのである。この時反元就派は元綱を当主とするつもりであったとも、また後ろ盾となっていた尼子家重臣・亀井秀綱と謀り尼子国久の次男・豊久を養子を迎えて元綱をその後見人とする予定だったとも言われている。
さらに反元就派による元就暗殺の企ても進められたが、これを察知した元就は志道広良率いる兵を元綱の居城・船山城に派遣し鎮圧に当たらせた。襲撃を受けた元綱も自慢の武勇をもって軍勢を押し返すも、抵抗空しく身体中を射ぬかれ槍で止めを刺されるという壮絶な最期を遂げた。一方でその死について、尼子氏の謀略により憤死したとも伝えられている。
この時点で元綱には嫡男の元範がいたが、幼年であった事から助命され、後に敷名元範と名乗って毛利氏家臣に加わる事となった。
元綱の粛清後、彼を担ぎ上げていた家臣らも軒並み討ち取られ、さらなる家臣団の統率が図られると同時に、それまで尼子方に与していた毛利氏が大内氏に帰参する契機ともなるなど、この一件は毛利家中全体にとっても大きな転換点となった。
また腹違いとはいえ、決して不仲ではなかった弟を討たざるを得なかった事は、元就自身にも暗い影を落としたようで、晩年になって息子達に送った「三子教訓状」において兄弟間の団結の重要性を説いたのも、この一件が大きく影響しているとされる。