生涯
前半生
中国地方は安芸の有力国人・毛利氏の第10代目当主。父に毛利弘元(第9代目当主)、同母弟に元就(第12代目当主)、異母弟に元綱などがいる。
興元が生まれた15世紀末の毛利氏は、安芸国内に割拠する有力国人らとの争いに加え、国外からも周防・長門の大内氏や但馬の山名氏などといった大大名の圧力に曝されるなど、極めて難しい舵取りを迫られる状況にあった。
とりわけ大内氏は、毛利氏を始めとする安芸の国人衆を庇護下に収めるなど当地での影響力を強めており、さらに明応の政変で幕府の将軍職を追われた足利義尹を擁し、当時幕府の実権を掌握していた細川京兆家などと対立する構えも見せていた。
この両者の対立の間にあってどちらの側に付くべきか、苦しい選択を強いられた父・弘元はそのどちらも取る事が出来ず、結果として家督をわずか8歳の幸千代丸(興元)に譲り、自らは次男の松寿丸(後の元就)らと共に多治比の猿掛城にて隠居の身となった。時に明応8年(1499年)の事である。
その父が酒害にて早逝した翌年、永正4年(1507年)に興元は16歳にて元服。この時烏帽子親を務めたのが大内義興である事からも窺えるように、興元在世中の毛利氏は一貫して大内氏寄りの姿勢を通し続けた。
同年、細川政元の横死に端を発した永正の錯乱で幕府・細川家中が大いに揺れ動く中、義興はこれを好機と見て前将軍・義尹を奉じ、近隣諸国の諸大名からなる大軍をもって上洛の途についた。興元もこの軍勢に従い上京し、軍事力を背景に足利義澄を追放し義尹が将軍職に返り咲いた後も、船岡山合戦を始めとする義澄方との抗争に明け暮れる日々を送った。
安芸国人連合の盟主として
足かけ4年にもわたる在京は、しかし毛利氏を始めとする安芸の国人衆には多大な負担を強いるものであった。加えて隣国・出雲においては、尼子経久が急速に勢力を伸ばしつつあり、その食指は安芸にまで伸びようとしていた。
ここに至って興元は、義興より先んじて安芸に帰国するや、国人らの対等な立場と互いの利益の維持を図るべく、吉川氏や平賀氏、高橋氏など有力な国人たちに一揆の締結を呼びかけ、永正9年(1512年)にこれを結ぶに至ったのである(第二次安芸国人一揆)。また興元は妹を吉川氏に嫁がせ、自身も高橋氏より正室を迎えるなど、婚姻関係を通じても国人同士の結び付きの強化を図った。
こうして一揆の盟主格として安芸の国人らをまとめ、また備後においても国人間の争いの調停に当たるなど、若年ながらもリーダーシップを発揮していた興元であったが、その興元と対立する勢力も勿論存在した。毛利氏と領土が近接する国人・宍戸元源はその最たるものであり、国人一揆にも参加する事無く独立を保っていた。
このため、興元は宍戸領内にまで攻め入るなど度々元源と抗争を繰り広げるも、その勝敗が付かぬまま永正13年8月25日(1516年9月21日)、わずか25歳にて急死してしまう。死因は父、そして祖父の豊元と同じく酒の害によるものであった。
興元死後の毛利氏
興元が急死した時点で、嫡男の幸松丸は未だ2歳と、到底当主としての務めが果たせる状態にはなかった。そこで幸松丸の後見人として、興元の弟で当時分家の当主であった毛利元就と、幸松丸の母方の祖父である高橋久光が、その役目を担う事となった。
しかし久光は、幸松丸の外祖父である事を背景に毛利家中での発言力を強め、さらにはその実権を掌握しようとするなど、その専横ぶりによって同じく後見人であった元就や家臣団からの反発を招く形となった。
その後大永元年(1521年)、久光が備後の三吉氏との戦いの最中に戦死すると、唯一の後見人となった元就は毛利家中より高橋氏からの影響力を排除し、さらに幸松丸も翌々年に9歳で夭逝するに至り、家臣団の推挙を受ける形で元就が当主の座に就く事となった。
やがて毛利氏は新当主・元就の下で着々と安芸国内での勢力を拡大していくが、その過程で高橋氏もまた元就の調略を受ける形で、内部抗争の末に併呑されるに至っている。その一方で、それまで対立を続けていた宍戸氏とは、高橋氏の旧領の一部の割譲や、宍戸元源の孫である隆家と元就の息女(五龍局)との婚姻を通じて関係を修復。以降の宍戸氏は毛利氏の一門衆として、「毛利両川」に次ぐ待遇を受ける事となるのである。