幼少期~将軍継嗣問題
文明12年12月15日(1481年1月15日)、堀越公方・足利政知の次男として誕生。兄弟には足利茶々丸(異母兄)、潤童子(同母弟)などがいる。義澄が生まれた時点で既に家督は茶々丸が継ぐ事に決まっていた上、叔父で8代将軍であった足利義政の意向もあり、6歳の時点で名を「清晃」と改め、かつての父と同様に京都の天龍寺香厳院にて仏門に仕える一生を送る事が運命付けられていた・・・はずであった。
しかしそれから2年足らずの長享3年(1489年)春、従弟で9代将軍の足利義煕(義尚)が陣没、さらに義政もその後継者を決めぬまま翌年正月に他界するや、俄かに将軍継嗣問題が顕在化する事となる。仏門に入ったはずの清晃もその渦中に巻き込まれる格好となり、幕府の実力者の一人である細川政元の推挙で将軍候補に担ぎ出される事となった。清晃の将軍候補擁立に関しては実父である政知も一枚噛んでおり、清晃を次期将軍に据えると共に弟の潤童子を次期堀越公方とする事で、堀越公方と競合する立場にあった古河公方の討伐を再開させる事も見据えていたとされる。
この将軍継嗣問題は、もう一人の将軍候補で清晃の従兄である足利義材が、日野富子の推挙もあって10代将軍に迎えられる事で結着を見る事となるが、一方で富子は清晃への配慮と後々の事を考え、かつて自身の居所としていた小川邸を譲り渡す事を約束していた。ところが義材の父である足利義視がこれに反発し、小川邸を破却した事により義材と富子の関係は急速に破綻を迎える事となるのである。
この時期には実家である堀越方面においても、延徳3年(1491年)に実父の政知が悲願であった関東入りを果たせぬまま病死。さらに一度は素行不良の廉で廃嫡されたはずの茶々丸が、代わって嫡男とされた潤童子とその母を害して堀越公方の座を事実上簒奪するなど、その情勢は極めて不安定な様相を呈していた。
明応の政変と将軍就任
明応2年(1493年)、細川政元を中心とした一派の挙兵により、河内に出兵中だった義材が将軍の座を追われる(明応の政変)や、清晃は政元一派により再度新将軍として擁立され、還俗して義遐(よしとお)、さらに義高と名を改めた上で、室町幕府第11代征夷大将軍に就任する事となる。これと前後して、関東では駿河守護代・伊勢盛時(宗瑞)が伊豆に侵攻、堀越公方の茶々丸を放逐するという事件が起きている(伊豆討ち入り)が、その背景には義遐やその一派が弟と実母を殺害した茶々丸の討伐を、室町幕府官僚という経歴を持ち伊豆近くに勢力を持っていた盛時に命じた、とする見方もある。
とはいえ、まだ12歳と幼年の新将軍に実権はないに等しく、その政権の最初期には義遐を擁立した政元や日野富子、それに義政時代からの重鎮である伊勢貞宗らといった一派が中心となって、幕政を取り仕切っていた。とりわけ政元の影響力は相当なものがあり、明応3年(1494年)末に行われた元服の儀は、政元の邸宅を会場としさらに元服の諸役をいずれも細川の一門が占めるなど、先の政変と併せて世間に政元の威勢と、将軍権威の失墜とを如実に示す形となった。
やがて義高改め義澄が成長し、さらに富子も他界するに至ると、前二代の将軍たちと同様に親政を志向する義澄と、実権を握る政元との間で次第に対立が表面化。政元が職を辞して領国へ戻ろうとすると義澄がこれを慰留し、逆に義澄が政務を放棄して寺に引きこもると政元らがこれを説得するなど、政権内での足踏みの揃わなさを露呈していく事となる。とはいえ、この対立の過程で義澄の政務復帰の交換条件のひとつとして実相院義忠(義材の弟)が殺害されてしまった事で、「義澄を廃して義忠を将軍職に据える」という選択肢を政元が失う結果となり、しばらくの間は両者とも協調関係を維持せざるを得ない状況が続いた。
一方、明応の政変で将軍職を追われた義尹(義材より改名)は京都を脱出して北陸方面へ逃れ、亡命政権である「越中公方」を樹立して反攻の機会を窺い続けていた。一時は越前の朝倉貞景の元に身を寄せ、さらに政元とも和解交渉を進めていたものの、それが不調に終わるや朝倉や畠山尚順ら支持勢力を糾合し、一転して京都への攻撃を画策する。その義尹の連合軍を近江にて食い止めたのが、前二代の将軍の度重なる追討を受けながらも、義澄政権の下で再び近江守護に返り咲いていた六角高頼であった。高頼はその後も義澄の擁護者として活動する一方、義尹は直後の政元との合戦にも敗れ周防へと落ち延び、当地にて大内義興の庇護の下、数年に亘って雌伏の時を過ごす事となる。義澄や政元もこれに対抗し、朝廷から綸旨を得て義興の討伐を西日本の諸大名に命ずるなど、義尹派になおも圧力を加え続けた。
永正の錯乱~将軍職追放
永正4年(1507年)、細川家内部における後継者を巡る対立から、細川政元が家臣の香西元長らによって暗殺されるや否や、その対立は武力抗争にまで発展(永正の錯乱)。この抗争は養子の一人である澄元が家督を継ぐ事で一応の決着を見るも、この混乱を好機と見て取った足利義尹は大内義興の助力の元、再度京都への進軍を開始する。澄元の実力不足や身内からの離反も災いし、義尹やそれに味方する諸勢力を防ぎ切る事が出来ないまま、永正5年(1508年)に義澄は六角高頼を頼って近江へ逃亡、京都への帰還を果たした義尹によって将軍職を解任されてしまう。
将軍の座から追われたとはいえ、義澄もただ甘んじてこの状況を受け入れる訳ではなかった。澄元や三好之長ら自陣営の軍勢を度々京都へ侵攻させたり、永正6年(1509年)に和田円珍を入れた数名の刺客を放って義尹の暗殺を謀ったりもしつつ、逆に近江へ攻め込んで来た義尹側の軍勢を撃退するなど、その後も京都奪還や将軍職復帰へ向けてなお気勢を上げていた。
しかしその幕切れは実に呆気ないものであった。義尹との決戦を目前にして擁護者であったはずの六角高頼が突如義尹方に寝返った事を知るや、義澄は失意のあまり病に倒れそのまま帰らぬ人となったのである。時に永正8年8月14日(1511年9月6日)、まだ32歳とあまりに早過ぎる死であった。義澄を欠いた状態で始まった船岡山合戦も義澄方の大敗に終わり、これに伴う義尹の将軍職復帰の確定をもって一連の抗争はひとまずの決着を見る事となる。
後に残された二人の息子のうち、嫡男の義晴は赤松氏や浦上氏の庇護を受けつつ、義稙(義尹より再び改名)が政権内での対立の末に再度京都を出奔したのに伴い、永正18年(1521年)に室町幕府12代将軍として迎えられる事となる。一方弟(庶長子とも)の義維は、紆余曲折を経て父と敵対していたはずの義稙の養子に迎えられ、阿波細川氏らの支援を受けながら義晴・義輝親子と、生涯に亘って抗争を繰り広げる事となるのである。
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信長の野望 - 蒼天録にのみ登場。