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足利義晴

あしかがよしはる

足利義晴とは、室町幕府第12代目将軍。11代目将軍・足利義澄の嫡男で、度々京都を追われながらも将軍職を確保し続け、対立勢力との戦いに明け暮れる生涯を送った。(1511年-1550年)
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波乱の幼少期編集

永正8年3月5日(1511年4月2日)、室町幕府第11代将軍・足利義澄の長男(※異説もあり)として誕生。幼名は亀王丸。亀王丸が生まれた当時、父・義澄は足利義稙との抗争の末に将軍職を追われ、近江の六角高頼を頼って落ち延びていたが、その義澄は京都に戻ることなく同年8月に31歳の若さで死去。亀王丸も生後間もなく、義澄派の播磨守護・赤松義村の下で養育される事になる。


2年後の永正10年(1513年)には義稙陣営と義澄陣営の和睦により、義稙の将軍職が確定した。ところがこの当時、庇護者であった赤松義村は重臣の浦上村宗と対立を深めており、両者の抗争に際して亀王丸も名目上の旗頭として担ぎ出される事となる。しかし両者の抗争は義村の敗北という形で決着、当主の義村は隠居を余儀なくされ(後に村宗の手の者により暗殺)、今度は村宗が亀王丸の身柄を引き受ける事となるなど、亀王丸を取り巻く状況は当初より極めて流動的であった。


赤松氏と浦上氏の対立が一段落した直後の永正18年(1521年)春、当時の幕府を主導していた10代将軍・義稙と管領・細川高国との間で深刻な対立が発生。やがて義稙は将軍職を放棄して堺へ出奔するが、折悪しく後柏原天皇の即位式も間近の出来事であったため、これに激怒した天皇は義稙に代わり高国に予定通りの即位式挙行を厳命した。即位式は無事に執り行われたものの、朝廷からも不興を買った義稙に高国は見切りを付け、村宗と相談の上亀王丸を将軍に仕立てる事を決定。かくして12月に亀王丸は元服の上義晴と名乗り、室町幕府第12代目将軍に任命された。


堺公方との抗争編集

将軍に就任したとはいえ、11歳の義晴には実際の政務を執り行えるだけの力もなく、かつての父と同様に細川高国や伊勢貞忠、それに義晴の養育係であった佐子局(清光院)らが中心となって幕府を切り盛りする状態がしばらくの間続けられた。


5年後の大永6年(1526年)、高国が讒言から家臣の香西元盛を殺害し細川家で内紛が起こると、高国と対立する立場にあった細川六郎三好元長の援助を受け、義晴の弟(異説あり)で義稙の養子ともなっていた足利義維を擁立して挙兵。元盛の兄である波多野稙通と柳本賢治が高国側から鞍替えしたのもあり、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで高国は敗北を喫し、結果六郎と元長の入京を許す結果となった。義晴は高国や若狭の武田元光を伴い近江に逃亡、以来亡くなるまでの間近江への出奔と、対立勢力との和解で京都へ戻るという繰り返しが続く事となる。


最初の出奔の後、同年の内には京都へと帰還、六郎や元長らと交渉に及んでいる。しかしこの交渉は不首尾に終わったようで、翌年には状況の悪化から朽木稙綱(朽木元綱の祖父)を頼って朽木氏の御膝元である興聖寺に落ち延び、武田元光らの軍事力を背景に「堺公方」を称した義維や六郎らに対抗した。六郎らの工作で堺公方側に寝返った者もいたものの、奉公衆や奉行衆など幕臣の多数は義晴の側に従い、朝廷や地方の大名とも引き続き関係を維持していた。


大物崩れと近江幕府編集

一方で細川高国は諸国を放浪し援軍を模索していたが、やがて前出の浦上村宗からの支援を得て反攻を開始した。享禄3年(1530年)から翌年にかけて摂津の堺公方側の諸城を落とし、一時は京都奪還をなし得たものの、やがて堺公方側の三好元長の参戦によって戦況は膠着化(中嶋の戦い)。一方の高国側には播磨の赤松政祐が援軍に加わったが、政祐はこの機に先の浦上氏との抗争の折の恨みを果たさんと考え、密かに堺公方側と内応の上で高国と村宗の軍勢を背後から襲撃、これにより戦局は堺公方側の優勢に転じた(大物崩れ)。敗れた村宗は討死し、高国も逃亡の末捕縛され自刃に追い込まれた。


高国という後ろ盾を失った義晴は、直後に幕府を京都から近江の観音寺城山麓の桑実寺境内に移し、以降3年間に亘って当地で政務を行った。朽木へ落ち延びた際以上に本格的な幕府の移転であり、また堺公方の義維が上洛出来ず将軍宣下を受けられなかった事もあり、引き続き中央政権として存在感を示し続けた。


晴元との和解と対立編集

ところがこの一連の戦いの後、勝者であったはずの六郎と元長は対立し、六郎は一向一揆と結託して元長を討滅。さらにその煽りを喰らって義維も阿波へ追いやられ、ここに堺公方側は呆気なく自壊を迎える事となる(天文の錯乱)。かくして対立の理由がなくなった義晴と六郎は、天文3年(1534年)に六角定頼義賢親子の後援の元で和解し、義晴も6年ぶりの帰京を果たす。直前の6月には五摂家の近衛家より妻を迎え、これにより血縁的な後ろ盾も強化された。翌天文4年(1535年)には六郎も義晴の偏諱を受け「晴元」と改名、室町幕府は義晴と晴元、そして定頼の3名を中心にようやく一時的な安定を見る事となる。


とはいえ、その後もやはり前述した出奔と帰京という繰り返しは変わらず、天文10年(1541年)の晴元と木沢長政との対立に際しては結果的に晴元に従って近江坂本に逃れ、半年近くを当地で過ごす羽目となった。それでもなお晴元との関係を維持していた義晴であったが、やがて細川氏綱(高国の養子)が畠山氏を味方に付けて晴元打倒に乗り出すに至り、義晴も晴元との対決姿勢を鮮明に打ち出し始める。


その最中再び近江坂本へ逃れていた天文16年(1547年)12月には、嫡男の菊童丸を元服させた上で室町幕府将軍の座を譲り、自らは大御所として幼少の将軍を後見する立場となった。室町幕府第13代将軍・足利義藤(義輝)の誕生である。ところが義藤の元服に当たって、晴元より家格が下の六角定頼が管領代として加冠役を務めており、これもまた晴元の面子を潰す事となった。


結局、晴元と氏綱の抗争は翌年7月に晴元側の勝利に終わり、氏綱側を支持していた義晴も最終的には晴元と和睦する事で、何とか義藤と共に帰京を果たす事が出来た。


逃亡の果てに編集

この一連の戦いにおいて、特に目覚ましい戦果を挙げたのが晴元の家臣・三好長慶であった。しかし天文18年(1549年)に入ると晴元と長慶は、当時細川家中で権勢を振るっていた三好政長の処遇を巡って対立。義晴は晴元に味方するが、政長が江口の合戦で戦死した事で、またしても近江坂本への出奔を余儀なくされた。


義晴も京都奪回を諦めておらず、その拠点として慈照寺の裏の地蔵山に中尾城の築城を開始するが、この頃から悪性の水腫に悩まされるようになり、城の完成した頃には最早動く事もままならない有様だったという。果汁の粥をすすってまでも進軍を続けるなど、死期が迫ってなお気炎を上げ続けていた義晴だったが、その途上の近江穴太において遂に力尽きる事となる。一説には最早如何ともし難い事を悟った義晴が病床で自ら腹を切ったとも伝えられている。時に天文19年5月4日(1550年5月20日)、享年40であった。



人物編集

応仁・文明の乱以降の将軍全般に言える事ではあるが、その治世は常に対立勢力や有力大名の抗争に悩まされ、将軍としての権威を決して十分に示す事が出来たとは言い難いものであった。それでも義晴の代には側近集団の再編による親裁権の強化、五摂家との縁組による朝廷との関係確保など、幕府や将軍の権威回復に向けた取り組みも積極的に行われており、特に将軍と内談衆の合議による幕政運営の一応の成功は、六角定頼の幕府内での発言権の拡大と併せて、管領職のさらなる形骸化と細川京兆家の発言力の低下に繋がった、と見る向きもある。


また対外的な戦略においても、周辺諸国の守護・国人への巧みな外交工作により堺公方の義維の入京を阻み続け、結果として前二代の将軍たちとは異なり、度々都を追われながらも将軍職を保持し続ける事にも成功している。自身も積極的に合戦に出ており、前出の中尾城のように城郭の築城・改修も多く行っている。


義晴と将軍職を巡って対立した堺公方・義維は、前述の通り弟と扱われているが、実際には生年は(諸説はあるものの)義維の方が早い。にも拘らず嫡男とも兄とも扱われなかった事については、生母の身分の違いによるものだとも言われるものの、一方で義晴の生母の方が身分が下であったという見解もあるなど、今なお明確な答えは出ていない。義維の末裔が書き記した書籍『平島記』では、義晴を将軍襲位させるために細川高国が、兄弟順を偽って襲位させたと記されている。


関連タグ編集

室町時代 室町幕府


家族編集


関連人物編集

  • 細川高国⋯室町幕府管領細川政元の養子の一人で、義晴の当初の後ろ盾であった。
  • 細川晴元…高国の仇敵にして、彼亡き後の義晴の後ろ盾ともなったが、その関係性は微妙なものがあった。
  • 三好長慶⋯晴元の家臣で、彼に反旗を翻したことにより、自動的に義晴とも敵対する格好となってしまった。
  • 大内義隆…上洛を打診したことがある他、義輝の元服に関わる資金を工面している。

創作の足利義晴編集

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