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足利義晴

あしかがよしはる

足利義晴とは室町幕府第12代目将軍。11代目将軍・足利義澄の次男で、足利義維の弟。(1511年-1550年。メイン画像の一番左側の人物。)
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父との早い別れ

大内義興に擁された足利義尹が上洛した煽りを受け、父の足利義澄は将軍職を解任され近江の六角高頼を頼って落ち延びていた。その1511年3月に義澄の次男として、誕生した。幼名は亀王丸。

(義晴には義維(1509年-1573年。14代目将軍・足利義栄の父)という兄がいるが、書籍『平島記』によれば義晴を将軍襲位させるために細川高国が、兄弟順を偽って襲位させたとも。)

だが、同年8月に父が31歳で死去。1513年に義稙陣営と義澄陣営の和睦により、義稙の将軍職が確定した事で、翌年に播磨守護・赤松義村に預けられてその庇護下で養育された。

しかし浦上村宗への反攻を目論む義村によって、名目上の旗頭に担ぎ出されてしまったばかりか、1521年に敗戦。この敗戦の責により義村が強勢隠居へ追い込まれたせいで、亀王丸の身柄は浦上家に渡ってしまった。

12代目将軍任命

同年、細川高国と足利義稙は対立。義稙が将軍職を辞退して京都を出奔した事で、後柏原天皇の即位式に出仕しなかった為に高国が警固の職務を行った。

そこで高国は村宗と対談し、亀王丸を将軍に仕立てる事を決定。そして12月に亀王丸は義晴と名乗り、第12代目将軍に任命された。

対立・和解

1526年、高国が家臣の香西元盛(波多野稙通柳本賢治の弟)を殺害して細川家で内紛が起こると、細川晴元は、三好元長の援助を受けて弟・義維を擁立して高国と戦う。

更に元盛の兄・波多野稙通と柳本賢治が高国から離反し、1527年に桂川原の戦いで高国が破れると、三好元長や細川晴元らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃亡。

翌年には朽木稙綱(朽木元綱の祖父)を頼って興聖寺に落ち延び、武田元光らの軍事力を背景に、弟と対立。しかし3年後、高国は大物崩れで自刃した。

戦後には晴元と元長が対立、1532年に元長が晴元と手を組んだ一向一揆によって討たれた後、京都より近江の観音寺城・山麓桑実寺境内に1535年まで幕府を移した。ただし朽木の時とは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転である。

1534年には六角親子の後援の元、晴元と和解して帰京。ところが、晴元と対立して敗れた後、和解して帰京するといった行動を行い、1541年に近江坂本に逃亡。翌年に再び和解して京都へ帰還したが、また対立して1543年に近江に再び逃亡。

1546年には細川氏綱に味方して晴元に対抗するが敗退してまた逃亡。同年足利菊童丸を元服させ、将軍の座を譲った。

翌年、なおも氏綱に味方した事が原因で六角定頼が離反して晴元に味方し、摂津でも義晴方の薬師寺元房ら諸将が晴元に降伏した為、城を焼いて再び近江に逃亡したが、後に晴元と和睦して義輝と共に再び京都に戻った。

逃亡の果てに

1549年に三好長慶が晴元に三好政長の処遇を巡って対立。義晴は晴元に味方するが、政長が江口の合戦で戦死すると義晴は義輝や晴元と共に近江に逃れた。

京都の復権を図るべく慈照寺の裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始するが、次第に悪性の水腫の悪化により動く事が出来なくなってしまう。そして1550年5月に近江穴太で39歳で死亡した。

余談

1527年の1度目の近江への逃亡以来、対立して近江に逃げる・和解して京都に復帰するの繰り返しである。これなんて無限ループ?

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