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細川晴元

ほそかわはるもと

細川晴元とは、室町時代後期~戦国時代前半の武将。父の仇である細川高国を滅ぼし、後には本家当主の座に就くものの、度重なる配下との抗争の果てに三好長慶によって追放された。(1514年-1563年)
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生涯編集

不遇の幼年期編集

永正11年(1514年)、阿波細川氏(讃州家)出身で細川政元の養子の一人・細川澄元の子として誕生。幼名は六郎。公卿の名門・三条家より正室を迎えていた縁から、武田信玄本願寺顕如とは義理の兄弟とも言える間柄でもある。

父・澄元は同じく政元の養子であった細川高国と、本家である京兆家の家督を巡って何度も争いを繰り広げながらも、その度に逆襲に遭い逃亡を余儀なくされていた。永正17年(1520年)にも、高国と室町幕府第10代将軍・足利義稙との対立に乗じ再挙して高国を破り、義稙の後援を受けて政権を確立させていた澄元だったが、この時も高国は短期間のうちに反撃に転じ、澄元政権は呆気なく崩壊を迎えてしまう。


同年6月、阿波にて失意のうちに澄元が死去したのを受け、六郎はわずか7歳で家督を継承した。仇敵である高国が義稙を追放し、足利義晴を第12代将軍に擁立して挿げ替えを断行するなど、事実上の天下人として栄華を極める一方、幼い六郎には劣勢を跳ね除けるだけの力は未だなく、讃州家を頼って阿波に下向してきた前将軍・義稙を助ける事さえ出来ずにいるまま、義稙もまた大永3年(1523年)に病を得て当地で薨去してしまう。

その義稙は亡くなる少し前、養子として義晴の兄弟・足利義維を迎えており、六郎は義維と共に従弟に当たる阿波守護・細川持隆の庇護の下、逼塞の日々を過ごす事を余儀なくされていた。


堺公方府と高国との抗争編集

時は下って大永6年(1526年)、六郎と義維に転機が訪れようとしていた。高国が家臣・香西元盛を自刃に追い込んだ事がきっかけとなり、元盛の兄である波多野稙通柳本賢治が高国への反旗を翻したのである。領国の丹波で討伐軍を迎え撃った稙通らはこれを散々に打ち負かし、さらにその討伐軍の中からも離反者が出るなど、この一件により高国側は深刻な内部分裂を引き起こす事となった。

これを好機と見た讃州家重臣・三好元長は、晴元を総大将として10月に高国打倒の兵を挙げ、年内には畿内まで進出して波多野軍と合流した。家督争いという、本来であれば私闘と見做されるべき争いではあったものの、高国は管領の立場を利用して将軍・義晴を擁し「官軍」としての体裁を整えており、晴元は自分達が賊軍扱いされる事を回避すべく、義維を自陣営の将軍候補として擁立、高国との対決に備えた。


翌大永7年(1527年)、三好・波多野連合軍と高国軍が雌雄を決する時が来た。桂川を舞台に繰り広げられた合戦は、激戦の末に連合軍の勝利に終わり、高国は義晴と共に近江へ追いやられた(桂川原の戦い)。晴元は堺に本拠を置き、義賢改め義維を将軍に戴く「堺公方府」という擬似幕府を構築。畿内一円の支配に向けて本格的に動き出す事となる。

ここまでは概ね順調であった六郎だが、一連の戦いに功のあった元長は柳本賢治との対立から阿波へと帰国、さらにその賢治も享禄3年(1530年)に陣没するなど、その雲行きは俄かに怪しくなっていく。対する高国は諸国を転々としながらも、伊勢の北畠晴具や播磨の浦上村宗らの助力を得て再び反攻に転じようとしており、六郎にとっては予断を許さない状況に追い込まれつつあった。


ここに至って、六郎は元長へ戦線復帰を懇願。既に賢治が没した後という事もあり、元長もこれに応じて阿波より舞い戻る事となる。とはいえこれで即座に状況が好転した訳でもなく、堺公方派の木沢長政の撤退により京都を高国・村宗軍に奪われた上、堺にほど近い摂津南部にまで攻め込まれるなど、堺公方側の苦境は依然として続いていた。

それでも阿波からのさらなる援軍も得て、何とか睨み合いに持ち込んだ堺公方側に、思いがけぬ味方が現れた。村宗の主筋に当たる播磨の赤松政祐である。高国の要請によりその援軍として参陣していたとはいえ、父の代から村宗に対して遺恨を抱いていた政祐はこの機会に仇を討つべく、密かに堺公方側へと内応を申し出たのであった。

かくして、赤松軍の裏切りにより形勢は逆転し、高国・村宗軍は呆気なく壊滅。敗走した高国も元長の命により尼崎にて捕縛され、広徳寺で自害に追い込まれた(大物崩れ)。ここに六郎は悲願であった亡父の仇を討つと共に、長らく続いていた「両細川の乱」に決着を付ける事にも成功した。


方針一転・反乱の鎮圧編集

高国を討ち、堺公方府と義維の公認も一気に現実味を帯びてきた中、六郎は突如として方針を一転させる。細川京兆家の家督と管領の座さえ手に入れば、別に義晴が将軍のままでも良いと判断した六郎は、堺公方府として政権を奪取するのではなく、依然として将軍職を保持していた義晴と和睦し、高国に代わって自らが管領に就こうと画策したのである。

あくまで義維を将軍に据える事に拘る元長はこれに反対するが、両者の関係はこれを機に急速に冷え込み、六郎は木沢長政や三好政長(元長の従叔父)らを始めとする反元長派の勢力を結集させ、元長を謀反の廉で討滅しようと動き出す。


享禄5年(1532年)、長政の守護職簒奪の企てが発覚し、主筋である河内の畠山義堯は元長と共に、長政を居城である飯盛山城に追い詰めていた。その最中、六郎は自身の支持者でもあった本願寺に一向一揆の蜂起を依頼し、包囲を続けていた元長・義堯連合軍を背後から襲撃させた。元長は法華宗の庇護者でもあり、予てより一向宗からは敵視されていたのである。

その結果、自らが手を汚す事無く元長や義堯は討たれ、さらに六郎にとって不要な存在となっていた義維もまた、この煽りを喰らって阿波へと追いやられた事で、堺公方府は呆気なく自壊を迎えた。対立の原因たる堺公方府が失われ、さらに近江の六角定頼の後援も得た事で、六郎の目論見通り将軍・義晴との和睦は成立。天文4年(1535年)には義晴からの偏諱を受け、名をそれまでの六郎から「晴元」と改めた。


以降、晴元は暴走著しい一向一揆軍の鎮圧に当たるべく、一向一揆と対立する立場にあった法華一揆をも利用して本願寺との抗争を繰り広げ(享禄・天文の乱)、これが一段落すると今度は法華宗の勢力伸長を挫かんと、六角氏や延暦寺と共同して弾圧を加えている(天文法華の乱)。その間には元長の遺子である三好長慶と和睦、さらに細川晴国(高国の弟)率いる残党をも討滅し、一連の動きを経てようやく畿内の情勢も安定を見る事となる。


晴元政権と内紛編集

天文6年(1537年)、晴元は京兆家当主が代々世襲してきた右京大夫の職に任官された。正式な管領職への就任こそなかったと見られるものの、晴元もまた事実上の管領として、幕政の運営に当たる事となったのである。

とはいえ、幕府と堺公方府との抗争の間、将軍・義晴によって幕府の権力機構が整備され、将軍と側近である内談衆による合議制が確立しており、六角定頼の幕府内での発言力の向上と相俟って、細川京兆家の発言力は相対的に低下していた。加えて「内衆」と呼ばれる京兆家の譜代家臣の大半が、高国の配下として討死していた事もまた、晴元にとっては痛手であった。


幕政において以前のような影響力を行使出来なくなりつつある一方、自陣営の内部では家臣同士の内紛が発生しつつあった。まず天文8年(1539年)には、河内十七箇所を巡る三好長慶と三好政長の抗争が勃発、結果的に小競り合い程度の段階で和睦となったものの、この抗争で晴元が政長側に肩入れした事が、その後の長慶の離反と政権崩壊の萌芽となる。

その長慶は、かつて自身と晴元の和睦を取り持った木沢長政とも対立していた。増長し次第に晴元の命令にも従わなくなった長政は、天文10年(1541年)に反旗を翻し、翌年に長慶・政長と遊佐長教の合力により滅ぼされるまでこの反乱は続く事となる。


度重なる反乱の中、天文12年(1543年)には仇敵・高国の養子である細川氏綱が和泉で蜂起。これ以降氏綱はかつての高国派の武将や、前出の遊佐長教などと結託して度々晴元側と干戈を交えており、摂津を手中に収めただけに留まらず京都にまで進攻、晴元らも丹波へ追いやられた時期もあった。

氏綱との抗争が続くにつれ、将軍職を息子の義藤(義輝)に譲った大御所・義晴は、やがて晴元と対立し親子ともども氏綱支持の姿勢を鮮明に打ち出すようになる。これに対し晴元は長慶と共に天文16年(1547年)より反攻に転じ、摂津を平定する一方で義晴の籠る瓜生山城を陥落させている。結局、六角定頼の仲介により義晴との関係を修復した晴元は、同年夏までには氏綱の反乱を鎮圧せしめるに至っている。


政権崩壊の果てに編集

これで再び政権運営も安定を見るかと思われた矢先、かつて氏綱側に寝返った池田信正を自害させた事でその空気も一転する。この一件に介入していた三好政長の処遇を巡って、政長を擁護する晴元と、政長排斥を主張する三好長慶や近辺の豪族達との関係は急速に悪化。信正自害から間もない天文17年(1548年)8月、長慶から政長討伐の認可を要請された晴元はこれを突っぱねるが、対する長慶はなんと氏綱側へ鞍替えし、政長の子・三好政勝の籠る摂津榎並城を包囲するという行動に打って出たのである。

榎並城を見捨てる事が出来ないとはいえ、戦力に不安のある晴元は六角氏からの援軍を待って攻撃の機会に移ろうとするが、その矢先に三好軍が攻撃を開始、敢え無く敗北してしまう(江口の戦い)。政長のみならず、高畠長直ら多くの配下をこの敗戦で失った晴元は追撃を恐れ、義晴・義輝親子と共に近江坂本まで逃亡した。


晴元逃亡後、京都と幕府の実権は長慶と氏綱が握るところとなったが、その後も晴元は復権を諦めず、将軍・義輝を擁して幾度も京都奪回を試みた。しかし状況が一向に好転せぬまま、旗頭であるはずの義輝には二度までも長慶の側に付かれ、また晴元の嫡男である聡明丸(昭元)も人質として長慶の手に渡る事となる。丹波・播磨が三好の勢力下に収まりさらなる形勢不利に陥っていく中、永禄4年(1561年)に当主として擁立した次男・晴之までも失うに至って、晴元も遂に長慶との和睦に踏み切る事を余儀なくされた。

その後、摂津の普門寺城に幽閉された晴元は永禄6年3月1日(1563年3月24日)、そのまま失意の内に50歳でこの世を去った。晴元と対立していた氏綱も翌年に逝去し、京兆家の家督は晴元の嫡男・昭元が相続。畿内の実権が三好氏から織田信長、さらにその後継者である豊臣秀吉へと移る中で、かつての勢威を完全に失った細川京兆家は武門の名家として厚遇を受け、辛うじてその命脈を保っていく事となる。


信長の野望編集

覇王伝PKより固有の顔グラフィックで初登場。本人のステータスはそれほど高くはないが、家臣に三好一門などがいたり、領地が多いので基本的に初心者向けの大名となっている。


現在のシリーズでは三好家に乗っ取られるイベントが多い。(天道のみ選択肢あり。)

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