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細川晴元

ほそかわはるもと

細川晴元とは管領細川家当主で、父の敵である高国を滅ぼすが後に三好長慶によって追放された。(1514年-1563年)
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反撃の機会

1514年、阿波細川家出身の細川澄元の子として誕生。幼名は六郎

当時父の澄元は同じ養子である細川高国と何度も争いを繰り広げており、何度も高国を破っては政権を確立させていたが、その度に高国の逆襲に遭い逃亡していた。

1520年、父の死去により、晴元は6歳で家督を継承した。しかし高国の勢力はなおも強大な状態だったために反撃の機会は無い状態だった。その一方で高国は足利義稙を追放し、足利義晴を12代将軍に擁立して挿げ替えを断行するなど依然として畿内で最大勢力を振るっていた。

1523年、高国によって追放された義稙が晴元を頼ってきたが当時9歳だった晴元は助力する事が出来なかった為に義稙は失意の内に死去。晴元は何度も父の仇を討つべく模索を行い続けていた。

高国との大決戦

1526年、細川家で事件が起こる。それは高国が家臣・香西元盛を自刃に追い込んだ事で元盛の兄である波多野稙通柳本賢治が謀反を起こした。この事に高国は対処出来ず、内部分裂を招く事となった。

これを機を見た三好元長は晴元を総大将として10月に高国打倒の兵を挙げた。同年内には畿内まで進出して波多野軍と合流した。しかし相手が将軍も付けていた為にこちらが逆賊になる事もありえたが、晴元は義晴の兄・足利義維を擁立してこれに備えた。

翌1527年には桂川原の戦いで高国を破って勝利。義晴を擁したままの高国を近江へ追い落とした晴元は義維を将軍に戴く「堺公方府」という擬似幕府を作った。

そして1530年には再起を図った高国と高国を救援する浦上村宗と対立。睨み合いが続くが、1531年に赤松晴政(当時は政祐)の裏切りによって形勢が逆転。高国は敗れて逃亡するも、晴元は部下に命じて徹底的に探した挙句に隠れていた高国を発見。捕縛して尼崎広徳寺で自害させ、亡父の仇を討つ事に成功した。

方針一転・反乱の鎮圧

しかし高国を討った晴元は突如、方針を一転させた。政権奪取から現将軍義晴と和睦し、その自分が管領に就こうとしたのだった。

元長はこれに反対するが、晴元は細川京兆家の家督と管領の座さえ手に入れば、別に義晴が将軍のままでも良いと判断したという事になったのである。晴元は反元長派の勢力を結集させ、遂に元長を逆賊として狙ったのである。

晴元は1532年、木沢長政に命じて元長と戦わせて自身は本願寺に一向一揆の蜂起を依頼。その結果、自らが手を汚す事無く元長や畠山義宣(木沢長政の元主君)を滅ぼした。更に最早不要となった義維を阿波へ追放に追いやった。

更に晴元は次第に命令に従わなくなった木沢長政を1542年に三好長慶に命じて滅ぼす。その翌年には挙兵した細川氏綱(高国の養子)と何度も争い1547年までには氏綱の勢力を弾圧させた。

政権崩壊の果てに

しかし1548年、氏綱に寝返った池田信正を自害させた事で次第に空気が一転する。この結果、三好長慶と近辺豪族達の離反を招いてしまったのであった。同8月、長慶が登城し政長討伐の話を持ち込んだが、晴元はこの話を拒否した。

交渉は決別し、数日後に長慶が氏綱側に離反して挙兵。晴元は六角軍の援軍を待って攻撃の機会に移ろうとするが、その矢先に三好軍が攻撃を開始した。江口の戦いで敗北した晴元は政長・高畠長直ら多くの配下を失い追撃を恐れて、義晴・義輝親子と共に逃亡した。

後年、政権復帰を図って晴元は何度も攻撃を行うが結局は果たせずの状態になり、1561年に次男・晴之(長男の昭元は三好家の人質)を失った晴元は長慶と和睦した。

しかし摂津の普門寺城に幽閉され、1563年に失意の内に49歳で死去した。

信長の野望

覇王伝PKより固有の顔グラフィックで初登場。本人のステータスはそれほど高くはないが、家臣に三好一門などがいたり、領地が多いので基本的に初心者向けの大名となっている。

現在のシリーズでは三好家に乗っ取られるイベントが多い。(天道のみ選択肢あり。)

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