概要
1496年、丹波豪族・波多野秀長の長男として誕生。別名は波多野元清とも伝わる。元服時は幕府10代目将軍・足利義稙から偏諱を受け、稙通と名乗った。
秀長の代までは西丹波を支配する一国人に過ぎなかった波多野家だったが、稙通本人は智勇兼備の名将で八上城を築城後は丹波における国人を次々と支配下に置いた。
1526年、末弟・香西元盛が細川家分流の細川尹賢の讒言によって主君・細川高国に処刑されると高国に対して良い感情を抱いていなかった稙通はもう一人の弟・柳本賢治と共に挙兵して丹波から高国の勢力を駆逐に成功し、同時に主君を細川高国から細川晴元に鞍替えした。
(実際、元盛が死亡する以前に高国は度々尹賢の讒言を信じて自身の家臣を自害させていた。この事態は高国政権の崩壊の兆しでもあり、元盛の死は高国政権の崩壊と晴元台頭のきっかけとなった。)
同年、高国が討伐軍を起こして攻めたてると追討軍を神尾山城に籠城し、これを撃退。更に翌1527年2月には三好一族の三好勝長と結んで室町幕府12代目将軍・足利義晴の実兄・義維を堺公方として立てるべく桂川原に出陣。(桂川原の戦い)
小競り合いが続く中で稙通に同情していた同じ丹波豪族の1人である内藤国貞は神尾寺城の包囲軍から離脱し、更に赤井五郎が3000の兵を率いて神尾寺城包囲軍を背後から奇襲し、包囲軍を撤退させた。稙通は更に野田城と山崎城を陥落させる事に成功した。
この働きは晴元にも認められ、室町幕府の評定衆にも列せられた。また三好長慶と良好な関係にすべく、娘を娶らせて友好関係を保った。
1545年に49歳で死去し、家督は息子の波多野晴通が継いだ。
信長の野望
覇王伝PKより初登場。智勇兼備と評価された事から、波多野家の武将中でトップのステータスの持ち主となっている。