小西行長
こにしゆきなが
前半生
永禄元年(1558年)頃、堺の薬商人・小西隆佐の次男として京都で生まれた。当初は備前の商人の元に養子に出されていたが、商売相手であった宇喜多直家に才を見出され武士として仕えた後、毛利攻めに当たっていた羽柴秀吉の元に使者として遣わされたのをきっかけに、秀吉からも気に入られその配下に加わる事となった。
豊臣政権下では舟奉行として水軍の統率を任され、物資の運搬など主に後方支援を担当する一方、天正13年(1585年)の紀州征伐では雑賀衆の抵抗に悩まされながらも太田城の水攻めなどにも参加、その後小豆島に1万石の領地を与えられた。
またこれに先んじて、天正12年(1584年)には高山右近の後押しや、元々両親や兄がキリシタンであった事などもあり、洗礼を受け「アウグスティヌス」の洗礼名を持った。小豆島では島の開発に当たると共にキリスト教の布教も推進、さらにバテレン追放令で右近が改易の憂き目に遭うと、これを匿い秀吉に諫言した事もあったと伝わる一方、自身は表向きは棄教した体を装っていたともされる。
天正15年(1587年)の九州征伐、さらにその後の肥後の一揆勢鎮圧を経て、後の朝鮮出兵を見据えた秀吉の判断により、宇土を始めとする肥後の南半分20万石を所領とした。小豆島領主だった頃に引き続き、肥後においても行長は領内に多くの宣教師を招いて教会や聖学校を建て、パイプオルガンや時計の製造にも取り組んだ。このため当時の天草では総人口の実に2/3がキリシタンであったとも言われている。
その一方、隣接する肥後北半分を所領としていた加藤清正とは、彼が日蓮宗徒であった事や、天草国人一揆の鎮圧を巡る対応の相違を巡り、次第に対立を深めるようにもなっていく。
朝鮮出兵
九州征伐と同じ頃より、女婿であった対馬の宗義智らと共に、朝鮮を服属させるよう命を受けていた行長であったが、朝鮮からの使者を服属使と称して秀吉に謁見させたり、朝鮮に対して明への道を貸すよう要請するなど、当初は穏便な形で事が済ませられるよう折衝を続けていた。しかしそうした試みはことごとく失敗に終わり、最早朝鮮との戦いは避けられぬものとなった。
かくして文禄元年(1592年)に第1次朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、行長は自身が希望していた先鋒を務め、釜山を皮切りに漢城(現・ソウル市)などの拠点を占領、その勢いに乗って平壌を攻略するにまで至った。なおこの漢城攻めの時にも加藤清正との先陣争いが生じており、その後の作戦や講和の方針を巡っても度々衝突を重ねるなど、行長・石田三成ら文治派と清正・黒田長政ら武断派との反目が深刻化。後の関ヶ原の戦いでの去就にも多大な影響を与える事となる。
しかしその後の明軍との戦闘では一進一退を繰り返し、長期戦に対する明軍の戦意喪失を好機と見た行長は三成と共に、明との講和交渉に携わった。そこで行長は明側の担当者と共謀し、明には秀吉が明に降伏の上で日本国王として冊封を受けると偽り、また秀吉には明が降伏したと報告し、双方を欺く形での講和を画策した。
その結果、秀吉の日本国王への冊封を記した書状を伴い、講和の使者が明より遣わされる運びとなった。当然ながら秀吉の要求を含んだものではなく、行長は秀吉に対し書状の内容を伝えるに当たりその内容を誤魔化すよう工作するも、結局そのまま内容が伝えられた事で講和も破綻。行長は交渉の主導者として、秀吉より特に激しい怒りを買い一度は死罪に処せられかけたが、前田利家と淀殿のとりなしで辛うじて許された。
慶長2年(1597年)から始まった慶長の役では再び朝鮮に渡海。先の講和交渉の失敗の埋め合わせもあってか、水軍を指揮し武功を立てる一方、明との再度の交渉では謀略により捕縛されかけるも、危うく難を逃れる一幕もあった。やがて慶長3年(1598年)に秀吉が薨去するに至り、行長は明との間で円滑な帰国のための折衝に当たり、自身も12月に帰国の途についている。
ちなみに1910年の朝鮮併合の際には、初代朝鮮総督の寺内正毅がこの事に因み「小早川 加藤小西が世にあらば 今宵の月を いかに見るらん」と詠んでいる。
関ヶ原の戦い
帰国後は寺沢広高と共に徳川家康の取次役を務め、当初はどちらかといえば家康寄りの姿勢を示していた。しかし慶長5年(1600年)に石田三成らが挙兵に及ぶと、会津征伐で京都残留を命じられていた行長も西軍に与する事となった。かつての主家であった宇喜多氏が西軍に属していた一方、肥後を任されて以来確執浅からぬ加藤清正が東軍に与したのも、この時の行長の去就に影響を与えたと考えられている。
そして関ヶ原本戦では東軍の田中吉政らの隊を相手に奮戦するも、大谷吉継隊の壊滅の煽りを喰らって宇喜多隊と共に総崩れとなり敗走。伊吹山中に逃れた後当地の庄屋・林蔵主に匿われたが、後に逃げ切れないと悟った行長はキリシタンであった事から自害をよしとせず、林に対して自身を捕縛し褒美をもらうよう勧め、結局竹中重門(竹中半兵衛の息子)に引き渡されるに至った。そして大坂・堺にて市中引き回しの上、10月1日に京都六条河原で三成・安国寺恵瓊と共に斬首に処された。享年43。
処刑に際しては浄土門の僧侶に経文を置かれることを拒否し、キリストとマリアのイコンを掲げた後に首を打たれたとされ、また死に臨んで告解の秘蹟を受けたいと(同じくキリシタン大名であった)黒田長政に依頼したものの断られ、処刑の後に教会が遺体を引き取って秘蹟を受けさせた上で埋葬されたと伝わるなど、熱心な信仰がうかがわれる逸話が複数残されている。
またその死は遠く海を越えてヨーロッパにも伝わり、時のローマ教皇・クレメンス8世がその死を惜しんだと言われる他、1607年にはジェノバで行長を主人公とした音楽劇が制作・上演されるなど、当時の日本での評価とは対照的に西洋では「信仰に厚く忠義を重んじる武将」として称えられた。
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