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竹中重門

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たけなかしげかど

竹中重門とは、中部地方の戦国武将。名軍師として知られる竹中重治(半兵衛)の嫡子であり、父の跡を継いで豊臣秀吉に仕えた後、関ヶ原の戦いでの戦功を認められ江戸期には幕府旗本にも列せられた。(1573年-1631年)

概要

天正元年(1573年)、美濃の武将・竹中重治(半兵衛)と、その正室の得月院(安藤守就の娘)との間に嫡子として生まれる。幼名は半助。

7歳の時に父・重治が病没したのを受け、当初は従叔父の竹中重利の後見の元、羽柴秀吉に仕える事となる。また元服に際しての烏帽子親は、父とも親交のあった黒田孝高(官兵衛)が務めている。

その後弱冠12歳で小牧・長久手の戦いに参戦、以降も小田原征伐など豊臣政権による全国平定に従軍し、天正17年(1589年)には美濃不破郡に5000石を賜る(後に朝鮮出兵での功を認められ6000石に加増)。後に竹中氏の本拠となる竹中氏陣屋(岩手陣屋)を築いたのもこの頃であった。

慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の戦いの際、当初は西軍に属し石川貞清らと共に犬山城に籠城していたが、井伊直政の調略により東軍に鞍替えし、当時本拠としていた菩提山城を徳川家康に提供した。本戦においては幼馴染でもあった黒田長政の陣に合力し奮戦したほか、戦後には西軍の小西行長を捕縛するなど、その戦功により家康から直筆の感状を受けた。

江戸期に入ってからは、領土を安堵され美濃岩出山6000石の旗本(交代寄合、領地に定府し参勤交代を許されるなど、大名とほぼ同等の待遇であった)となった。その後は前出の竹中氏陣屋に本拠を移し、二条城の普請や大坂の陣にも参加。晩年には林羅山に師事するなど文筆家としても活動しており、『しぐれ記』『木曽記』という旅行記の他、寛永8年(1631年)に59歳で逝去する間際にも、豊臣秀吉の伝記である『豊鑑』を著している。

重門の死後も竹中氏は引き続き交代寄合として、幕末に至るまでその命脈を保った。しかし幕末期の当主・竹中重固戊辰戦争の際に箱館戦争まで旧幕府軍の一員として戦い続けたことから、先祖伝来の陣屋を没収されたうえに6000石から300石への減封処分を受けるとになった。

また次男の重次は黒田長政に召し抱えられ、福岡藩の重臣として仕えた。

pixivにおいて

秀吉の軍師として活躍した父・重治と比べると、日本史の上ではあまり目立った活躍に恵まれた武将という訳ではない。しかしながら、若くして活躍した(小牧・長久手の戦いの際12歳)ことにより、創作面においては人気のある武将の一人であり、pixivにおいては主として若い姿のイラストが多いとされる。

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