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九州征伐

きゅうしゅうせいばつ

大友宗麟の後詰め要請に応じた豊臣秀吉の九州進軍。
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九州征伐とは、羽柴秀吉九州を統一しつつあった薩摩の島津氏に対して大友宗麟の要請で後詰めに赴いた戦いである。

九州征伐の背景

 天正十三年(西暦1585年)、四国征伐が行われていた頃の九州はといえば、九州三国鼎立時代ともいえる島津氏、大友氏、龍造寺氏の三雄が一人である大友宗麟は天正六年(西暦1578年)、耳川の戦いで碌に指揮も執らず唯、ゼウスに祈るばかりの大敗を喫し多くの国人が大友氏の元から離反するという事態を招く。その離反した一人である「肥後熊」と名高い龍造寺隆信は天正十二年三月、沖田畷の戦いでまさかの総大将である隆信自身が討ち死にし影響力を急速に縮小させ、龍造寺氏は島津氏に併呑されながらも鍋島直茂(後の肥前佐賀藩初代藩主)といった有能な家臣団によって辛うじて家名を存続させている状態で、大友氏は立花宗茂(後の筑後柳河藩初代藩主)らに支えられ辛うじて領土を持ち堪えさせるも風前の灯火に等しく、島津氏による九州の平定は眼前となりつつあった。
 この動きを受けて大友宗麟羽柴秀吉に後詰めの要求を送り、秀吉は天正十三年十月、大友氏と島津氏の双方に停戦を命じるが、織田氏にこそ恭順の意を示していた島津氏も源頼朝の落胤として源氏嫡流を自称する(※この自称は現在では否定的であるが、織田信長平氏を自称したように当時は信憑性を持たれ、大日本史にもそう記された)由緒正しき守護大名が、出自定かならぬ秀吉の風下には立てぬと云う意見を見せ、表向きの和平交渉は両家共に飲む形で収まるかに見えたもののやれ島津がしかけたいや先に仕掛けたのは大友だと和平交渉は泥沼と化し、その間にも島津氏による大友領への蚕食は続行されていた為、秀吉は九州に程近い中国地方の雄、毛利輝元に先発を命じ、同じく平定したばかりの四国から軍監に仙石秀久を抜擢しての混成軍を先発隊として二方面から進攻を開始する。

秀吉、九州征伐の出馬準備で家康と和睦

 更に秀吉は自身も後方で出馬の準備を整えながら九州の分国案を島津、大友両家に提案するがこれは島津氏が自力で併呑した九州北部を大友氏に返上するという受け入れがたい案であった為に拒絶される。去る天正十三年二月には肩書きだけの征夷大将軍となった足利義昭島津義久九州太守に任命するなど政治的な力学も影響して、いよいよ以て混迷を極めた九州の戦況は島津氏の大友氏本拠である北九州三国、豊前豊後筑前への進攻で抜き差しならぬ状態となる。天正十四年(西暦1586年)六月、島津軍は遂に筑前への進攻を開始する。
 さて、一方で天正十三年七月、関白に任官された秀吉九州出兵に当たって東の憂いを断つ為にどうしても徳川家康を懐柔する必要に迫られ、天正十四年には妹である朝日姫家康の正室として送り、さらに母である大政所を人質として家康に預け、漸く家康を上洛させ臣下の礼に漕ぎ着けさせる。

先発隊、四国混成軍と毛利軍の九州上陸

 こうして晴れて西進の準備が整った天正十四年四月十五日には、毛利輝元九州への先導役を任じ名将、高橋紹運立花宗茂の実父)が籠もる岩屋城の奥で苦境に立たされている大友家を救うべく兵を徴募するが、何はともあれ秀吉軍の到着まで大友氏が持ち堪えられるかが目下の難題となった。
 先ずは大友氏の緒戦、天正十四年七月、岩屋城の戦い高橋紹運が城兵七百六十三名ながら堅固で鋭利極まる采配振りを以て、高橋紹運を含めた全兵玉砕と引き替えに七月二十七日まで島津軍を釘付けにした上で大出血を強いる。この予想外の抵抗と出血に島津軍は遅滞し、軍の再編にと手間取った。
 続く高橋統増(のちの立花直次)が守る宝満山城は八月六日に開城となったものの、立花宗茂が守将を務める立花城は実父の華々しき散り様を見てか頑強な抵抗を見せ、遂に秀吉軍先発隊が一つ、中国の雄である毛利軍が長門国赤間関(山口県下関市)まで進軍する。この情報を掴むと島津軍は八月二十五日、立花城の攻略を断念し、立花城近辺に普請されている高鳥居城に抑えとして星野鎮胤星野鎮元らを置き、本隊は撤退を開始した。籠城して尚、立花宗茂はこの隙を見逃さず追撃し翌、八月二十五日には高鳥居城を落城せしめ、八月二十六日には毛利軍先遣隊の神田元忠が率いる兵三千が九州に上陸し豊前で島津軍と交戦、宗茂は破竹の勢いでこれら毛利軍の先遣隊と連携しながら八月末日までに岩屋城宝満山城を奪還するに至る。
 天正十四年九月、秀吉より四国からも九州征伐の兵徴募が開始され、同時に九月九日に朝廷から晴れて豊臣姓を下賜された秀吉の調略で豊前国花尾城広津城時枝城宇佐城筑前国龍ヶ岳城を帰順させる。

北九州で毛利軍、破竹の進撃。岡城、決死の抵抗

 十月初旬、毛利軍本隊の毛利輝元軍監黒田孝高、麾下に伯父の毛利両川と名高い小早川隆景吉川元春(但しこの頃、吉川元春は病を得ていた)を伴って九州に上陸。豊前小倉城宇留津城を攻め、殊に毛利輝元が指揮し毛利両川が攻め手に加わった小倉城の落城は早く、加えて豊前馬ヶ岳城浅川城剣ヶ岳城の合計四城が落城し毛利氏に帰順する。毛利軍は豊前で八面六臂の活躍を見せるのである。
 しかし天正十四年十月二十二日、島津義久は実弟の島津義弘を大将とし、三万の兵力で肥後国阿蘇から九州山地を越えて豊後へと進攻を開始させる。義弘の軍勢は二十四日に豊後津賀牟礼城を攻め落とし、その城主である入田宗和豊後を案内させて岡城を攻めた。小松尾城一万田城といった多くの城は戦わず島津氏に帰順したが、岡城を守る大友氏家臣の志賀親次島津義弘に激しく抵抗し、義弘は遅滞を余儀なくされた。
 その一方で義久は別働隊として異母弟の島津家久に兵一万を預け、日向国から豊後国に進攻する策を謀る。家久隊は十月、豊後松尾城小牧城を攻め落とすと、十月二十三日、大友氏の有力家臣である栂牟礼城佐伯惟定に降伏の使者を送ったが、惟定は周辺に多数の支城を築き、佐伯湾の制海権も厳重に握るなど徹底して防備につとめ、十一月四日には栂牟礼城から攻め出でて堅田で家久隊と交戦、これに勝利し島津軍の侵攻を阻止した。
 こうして豊後大分県南部)では島津軍が戦乱を繰り広げながら豊前福岡県北部海岸線沿い)では毛利軍が侵攻し、毛利軍は吉川元春が島津方の宮山城を攻略したのち、小早川隆景と共に秋月氏当主(島津氏麾下)秋月種実次男の高橋元種が守る香春岳城の付城、松山城を攻め、同時に十一月七日には賀来専慶が守る宇留津城、同十五日にはさらに松山城の支城である障子岳城を攻撃した。途上、吉川元春が陣中で病没するという不慮の事態に見舞われるが吉川勢は攻撃の手を緩めず、高橋元種の拠点である香春岳城を二十日に亘って猛攻し、十二月上旬に元種を降伏させている。こうして豊前はほぼ毛利軍によって制圧され、両者の戦線は島津義弘島津家久が進攻を続ける豊後へと移る。この動きに対して後方の秀吉は翌年三月に自ら出馬する決定を下し、全国諸将に合計二十万名の兵収集と兵站の構築を命じるに至った。

年末、四国混成軍が瓦解して年越

 一方、豊後島津家久が要衝、鶴賀城に猛攻を加え、大友家家臣の城主である利光宗魚はこれを良く守るも流れ矢に当たり運悪く戦死してしまう。鶴賀城が落城した場合、先述の岡城方面から進攻していた島津義弘岡城を抜くと鶴賀城を抜いた島津家久に挟撃される恐れがある府内城に入城したもう一つの豊臣軍先鋒隊、四国軍(混成軍)は軍監に着任していた仙石秀久の決定で挟撃される前に鶴賀城の後詰めに向かうも島津家久に大敗、六千名の軍勢が一所に霧散してしまう。これが天正十四年十二月十二日に行われた戸次川の戦いであり、勝利の余勢を駆って島津家久鶴賀城を抜くと一気に府内城も占拠、隠居の身である大友宗麟が籠城する丹生島城臼杵城)を包囲する。しかし岡城志賀親次は幾度となく寄せて島津義弘からこの戦線を防衛し、島津家久丹生島城と、木付鎮直が守る杵築城の攻略に手こずっている間に大友家家臣、栂牟礼城守将の佐伯惟定が後方の諸城を奪還して兵站線を遮断し家久軍を孤立させる事に成功する。
 こうして天正十四年は本格的な冬将軍が到来し、島津義弘豊後朽網城で、島津家久豊後府内城で越冬する事になる。結局、天正十四年の内に島津家は九州統一を果たせずに終わり、しかも豊前は完全に先遣隊の毛利軍に占領され、豊後の確保も不十分という地盤の固まらぬ状態を余儀なくされるのである。
 他方、丹生島城に籠もる大友宗麟は矢の催促で秀吉に後詰めの要請を送り、天正十五年年賀の祝辞に当たって遂に秀吉は出馬の軍令を下し、正月二十五日には宇喜多秀家を先発させ、二月十日には弟である豊臣秀長が、三月一日には秀吉自身が出立する。総軍勢は前触れ通り二十万越えで石田三成ら兵糧奉行の見事な働きもあり過不足なく秀吉軍は意気揚々と九州入りを果たすのである。

秀吉本隊、遂に九州へ上陸

 軍勢は二手に分かれ、筑前肥後攻略軍に秀吉が大将として着任し、豊後日向攻略軍には豊臣秀長が着任した。
 対してこの進攻を察知した島津軍は早々に九州北部の制圧を放棄し自領である薩摩大隅日向の防御を固めた為、九州北部は秀吉の到着を待たず瞬く間に落城していく事になる。秋月家当主、秋月種実岩石城が僅か一日で落城したとの報せを受けて居城の益富城を破棄、本拠地の古処山城へと退却するも、秀吉お抱えの先鋭土木建築集団がこれを一夜で修復。翌朝、秋月種実は自身が破棄した筈の益富城が燦然と輝くのを目にして戦意喪失し、天下の三肩衝茶入と名高い楢柴肩衝国俊の刀を秀吉に献上し、娘の竜子を人質として側室に入れ自らは剃髪、秀吉に降伏するのは有名な話である。
 この時の一夜城は墨俣一夜城などとは異なって文字通りの一夜で修復した真の意味での一夜城であったが、実際には修復したように見せかけた擬態であった。

豊臣秀吉、同秀長、順調に南下

 豊臣秀吉大阪を出馬したその日、豊臣秀長軍は小倉に到着。島津軍は豊臣軍から和睦の検使を派遣されるもこれを拒否、抗戦を選択する。その為には豊後に出兵した島津家久島津義弘の両軍を早々に余力を残した状態で撤収させ、兵力差を克服する為に戦線を縮小する事がさせる事が課題となったのだが、この島津軍撤退によって各地の土豪も島津氏を見限り、島津家久と入れ替わって府内城に入城していた殿軍の島津義弘佐伯惟定らに散々、追撃され出血を強いられた(梓越の戦い)。
 豊臣秀長はさして難なく先発隊の毛利輝元宇喜多秀家の両将と合流し十万の軍勢を進攻させる。豊後から日向へ進攻を開始し三月二十九日、松尾城を落とすと四月六日には耳川宮崎県中部)を渡河、島津軍きっての勇将、山田有信が守る高城を包囲しこれを兵糧攻めにすると、後詰めの計を仕掛ける。孤立した高城を救援すべく島津軍は島津義久島津義弘島津家久の三将を大将とした三万からなる兵力を以て進軍した。

島津軍主力との正面衝突、根白坂の戦い

 一方、三月二十九日には豊臣秀吉も小倉に到着し、島津氏に属する筑前の土豪、秋月種実方の岩石城を四月二日に攻撃開始し、これを翌三日に降伏させる。先述の如く岩石城の落城はその間、僅か一日の事であった。秀吉は更に進軍し四月十日には筑後に進攻、進路上にある土豪は碌な抵抗も出来ず次々と降伏し、四月十六日には肥後隈本(熊本)、翌日には宇土に進軍、島津氏本拠地の薩摩に向けて順調に南下していく。途上、肥前龍造寺政家鍋島直茂の計らいで豊臣家へと帰順。この雪崩を打つような降伏劇は島津義久が東九州秀長軍に気を取られる余り、西回りが手薄になったのも要因となった。
 結果、早期の決戦しか道が残されていなかった島津義久の意向で四月十七日、島津軍は高城へと続く要衝の根城坂を急襲するのである。
 これに対して島津軍と第一に接触した宮部継潤は逆包囲される形になるも、後詰め襲来を想定していた砦は完全な要塞と化しており強行軍するも島津軍は此処を抜く事が出来ず、戦線は膠着する。この膠着に宮部継潤の切り捨ても止むなしと消極策を進言した軍監尾藤知宣の意見を受けて進軍を停止した豊臣秀長だったが、秀長家老、藤堂高虎の兵五百名と宇喜多秀家麾下の戸川達安がこの言を退けて宮部継潤の後詰めを独断にて敢行。両将の兵が接触を繰り返して島津軍を翻弄している隙に黒田孝高小早川隆景の軍勢も到着し島津軍は総崩れとなり、島津忠隣猿渡信光らが戦死し軍勢にも多数の死傷者を出し島津軍は撤退(根白坂の戦い)。結局、この島津軍主力の敗戦が切欠となって島津義久は戦意を消失し、四月二十七日には予想を遙かに上回る速さで秀吉本隊が薩摩に進攻した事もあり、四月二十八日、薩摩の戦いを最後に島津義久は五月六日、剃髪して出家した上で五月八日、秀吉に謁見し正式に降伏する事になった。
 島津義久が下った後も島津義弘と、根白坂の戦いで婿養子である島津忠隣を失った島津歳久らの抵抗は続いたが五月二十二日、島津義久の説得を受けて遂に降伏開城。島津義弘は子息の島津久保を人質に差し出す事で決着と相成る。

九州征伐後の九州分国

 この軍役によって島津家への領土は島津義弘薩摩一国、島津義弘大隅一国、日向国諸県郡が島津義弘の子、島津久保に与えられた。大友宗麟には日向一国、島津義久家老である伊集院忠棟大隅一郡、伊集院忠棟に与えられた一郡を除く大隅国は嫡男を失った長宗我部元親の所を元親はこれを固辞、肥後一国に佐々成政肥後人吉一郡に相良頼房筑前国筑後国肥前国一郡は小早川隆景に与えられ、豊前国のうち五郡半(京都郡、仲津郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐半郡)には黒田孝高に、豊前の企救郡と田川郡には森吉成筑後柳川城には立花宗茂豊前小倉は毛利勝信に与えられた(この内、小早川隆景筑後三郡を毛利秀包に与えている)。大友宗麟の子である大友義統には豊後一国と豊前宇佐半郡が安堵、龍造寺政家大村喜前松浦鎮信は、それぞれ肥前国内の所領が安堵、宗氏には対馬国が安堵された。他諸々。
こうして九州征伐は終わりを告げ、帰路に豊臣秀吉博多を主要港湾都市として復興すべく定め、六月十九日には博多バテレン追放令を下令、キリスト教は禁教とされる(但し徳川家康が敷いた禁教令よりは遙かに緩く、庶民の信仰は目こぼしされ禁じられたのは大名の信仰のみであったが、その大名黒田孝高が洗礼を受けたりしているのでかなりアバウトな指示であった)。この帰路の際、備後に立ち寄り島津氏への九州太守というお墨付きを与えた迷惑な足利義昭を回収し京都で出家させりもした。
 これでもって九州惣無事令が下令され私闘禁止と相成るのである。「戦闘」にはすこぶる強かった薩摩隼人の島津氏も、その一歩先を洗練させた「戦争」で百戦錬磨を誇る豊臣軍には脆く、これは島津氏に限らず大凡の戦国大名も例に漏れなかったのである。

 が、余談ではあるが面白い事に秀吉による支配は薩摩大隈日向の三国に押し込められた島津氏を逆に隆盛させたりもした。上記の通り九州という土地は島津氏の他に少弐氏、龍造寺氏、大友氏といった土豪が非常に強い発言力を持ち、幾ら守護大名の座にある島津氏としても彼らに強く発言できるわけではなかった為、秀吉軍が侵攻すると雪崩を打つように寝返っていったのは御覧の通りであるが、一方で太閤検地を実施して石田三成が徹底して検地を行い土地の利権を明確化し、かつ先進土木技術を導入した結果、島津氏の薩摩は一国だけで表石高が二十二万五千石から五十六万石へと大躍進したのである。しかし配下の土豪は実石高を(当然の事ではあるが)申請分だけに据え置かれた為に島津氏は大幅な収入増を果たしたが土豪は惣無事令にて領土の切り取りを一切、封じられてしまったのでその恩恵にあずかれなかったのである。
 島津氏に限らず、先進技術を導入させ収入を増収させその増収分を忠誠の証しとして割り当てる、これが豊臣秀吉の富国策であった。島津義弘関ヶ原の戦いで西軍に与したのも案外、そういった個人的な恩を感じたからかも知れない。

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