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九州征伐

きゅうしゅうせいばつ

九州征伐とは、豊臣秀吉と九州を統一しつつあった薩摩の島津氏の戦いである
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背景

戦国時代の九州は、長く豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏、そして薩摩の島津氏とそれらに従属する小勢力によるいわば「九州三国鼎立」時代となっていた。
その均衡が崩れたのは、天正6(1578)年日向へ侵攻した大友宗麟耳川の戦いで大敗を喫した事であった。この戦いによりこれまで三国間で最大勢力を誇っていた大友氏は一気に衰退、代わって島津・龍造寺二国間の争いになったものの、天正12(1584)年に沖田畷の戦いで当主である龍造寺隆信をはじめ、主要な武将が軒並み戦死するという大打撃を受けてしまう。
龍造寺氏は筆頭家老で隆信の義弟でもあった鍋島直茂の指導の元、島津氏への従属を余儀なくされ、九州はもはや向かうところ敵なしの当主・島津義久とその兄弟達率いる島津氏と、主要な国人に背かれ、さらに重臣の立花道雪が死去し、もはや高橋紹運立花宗茂などのわずかな家臣を残すのみとなり、風前の灯火となったの大友宗麟・義統父子の大友氏のみが残る状況となった。

この四面楚歌の状況を受けて宗麟は羽柴秀吉に従属と引き換えに援軍を要請した。しかし秀吉はこの時徳川家康交戦中だったため援軍を出せない状態にあった。
そこで天正13(1585)年10月、大友氏と島津氏の双方に停戦を命じ、さらに翌14(1586)年3月に仲裁案として九州の国分案を提示した。それは、
・薩摩、大隅、日向、肥後半国、豊前半国を島津領。
・筑後、豊前半国、肥後半国を大友領。
・筑前を秀吉直轄領。
にするという島津氏優位の提案であった。
しかし島津側が出自定かならぬ秀吉の風下には立てぬと云う意見を見せ、和平交渉は泥沼と化した。

前哨戦

島津の筑前侵攻

天正14年6月、島津義久は秀吉の九州侵攻前に「九州統一」の既成事実を作り上げるべく、まず従兄弟の島津忠長と重臣の伊集院忠棟率いる軍勢を筑前へ侵攻させた。
一方島津軍の筑前侵攻の報に接した秀吉は黒田孝高の意見を容れ、九州に程近い中国地方毛利輝元に豊前へ、平定したばかりの四国地方から長宗我部元親、軍監に仙石秀久を加えた軍勢を豊後へ向け、先発隊として進攻を開始させた。

筑前へ侵攻した島津軍は破竹の勢いで北上したが、岩屋城(福岡県太宰府市)に籠る高橋紹運は、わずか700名で2万を超す島津軍相手に約1か月にわたって激戦を繰り広げたのちに、紹運以下全員玉砕と引き換えに大打撃を与えることに成功した。
この結果紹運の実子である立花宗茂がこもる立花山城(糟屋郡新宮町)など、他の大友方の城を落とすことは不可能となり、さらに秀吉の命を受けた中国勢が九州の対岸である赤間関(山口県下関市)に達したとの報を受けて薩摩へ撤退することとなり、宗茂は中国勢先鋒と共同で岩屋城はじめ島津軍に奪われた各地を奪還することに成功した。

豊臣先方軍到着と島津の豊後侵攻

9月に四国勢が豊後に、10月に中国勢本隊が豊前に上陸し大友への援兵が増えつつあったが、島津義久も次弟の義弘率いる3万を肥後より、末弟の家久率いる1万を日向より豊後へ侵攻させ、大友の息の根を止めようとした。
岡城(大分県竹田市)の志賀親次栂牟礼城(佐伯市)の佐伯惟定などが奮戦したが、劣勢は覆しがたく岡城を迂回した義弘軍は、12月には宗麟の本拠丹生島城(臼杵市)と義統の本拠上原館(大分市)を繋ぐ要衝である鶴賀城を落城させ、城主で重臣の利光宗魚を討ち死にさせた。
この報に接した四国勢は、栂牟礼城を迂回し北上しつつある家久軍を叩くべく、全兵力の6千で戸次川での要撃を決意。12月11日に府内を出陣し軍監の仙石秀久の命令で戸次川を渡河したものの、待ち伏せていた家久軍の前に大敗を喫した。この戦いで長宗我部元親の嫡男・信親が戦死、秀久と元親は敗走し四国勢は消滅することとなった。
13日に上原館は落城し義統は豊後へ敗走した。しかし島津軍も宗麟が籠る丹生島城を攻めあぐね、さらに佐伯惟定が豊前南部で蠢動するなど油断ならない状況が続いた。

本戦

秀吉本隊九州上陸

10月に秀吉は徳川家康を臣従させ、東日本の憂いを当面無くすことができた。
12月に兵の召集や兵糧の準備を始めさせた秀吉は、翌15年の年賀の席で九州遠征を諸大名に伝えた。2月10日に弟の秀長が、3月1日に秀吉自身が出陣し九州へ向かった。
25日に赤間関に秀吉軍20万が集結し、その軍勢を肥後方面から秀吉が、日向方面から秀長が率いて進むことが決定された。
一方の島津軍は秀吉軍の接近を知り南九州へ撤退し守りを固めた。

古処山城攻防戦

3月29日、秀吉軍は筑前南部を領する島津方の秋月種実を攻めた。
種実は古処山城(朝倉市)を本拠に、岩石城(添田町)、益富城(嘉麻市)などの支城を拠点に抵抗を試みたが、4月1日に豊臣秀勝蒲生氏郷前田利長らの軍勢が岩石城を攻撃、1日で落城してしまった。
益富城から様子をうかがっていた種実は、益富城を破却し古処山城へ撤退、それを追った豊臣軍5万も古処山城攻略の準備に入り、さらに益富城下に火を放った。
翌2日、秋月軍将兵が見たのは修復された益富城と城下町、水源を破壊した川に水が流れている様子であった。
実は益富城下の火は村人にかがり火を焚かせたもの、城は奉書紙を貼ったみせかけ、川の水は米を流したものというはったりだったのである。
しかしはったりを知るよしの無い種実以下の秋月軍は完全に戦意を喪失、翌3日に降伏した。

秀吉軍の圧倒的兵力と秋月氏が3日で降伏したという事実を前に、島津方諸将は続々と降っていき、4月19日には肥後八代まで進んだ。さらに龍造寺政家有馬晴信などの肥前の諸将も秀吉への臣従を誓った。

根白坂の戦い

一方秀長軍も4月6日に日向の高城(宮崎県木城町)まで進み、南方の根白坂に砦を築いた。一方これ以上の侵攻を許すわけにはいかない島津軍は、高城救援と秀長軍撃破の為
2万の軍勢で根白坂の砦を攻めたものの、宮部継潤率いる守備隊と藤堂高虎、黒田孝高、小早川隆景らの救援軍を前に大敗を喫し敗走した(根白坂の戦い)。なおこの時根白坂砦を見捨てるよう進言し、さらに島津軍への追撃も深追い無用と進言した軍監の尾藤知宣は、このことを秀吉に責められ改易処分となった。

島津氏の降伏

4月27日に秀吉軍は肥後・薩摩国境を越え、鹿児島への直接攻撃も時間の問題となっていた。
一方の島津軍は根白坂の大敗で抵抗するすべを失っており、4月29日降伏の使者を送った。
そして5月8日、剃髪し「龍伯」と号した義久は川内([[[薩摩川内市]])に本陣を置いていた秀吉の元に出頭し正式に降伏した。

九州征伐後の九州分国

6月7日、秀吉は筑前の筥崎天満宮で九州の国分を発表した。

  • 島津家は義久に薩摩、義弘に大隅、家久の長男・豊久に日向都於郡を安堵(家久は6月5日に死去)し、加えて諸県郡が義弘の次男・島津久保に与えられた。なお大隅は当初長宗我部元親に与えられる予定であったが、元親が固辞した為島津領のままとなった。
  • 大友家は義統に豊後を安堵した。また内々の話では宗麟に日向を与えるとしたが、宗麟が固辞し、5月6日に死去した。
  • 大友家臣であった立花宗茂は豊臣直臣へ引き上げられ、筑後柳川を与えられた。
  • 肥前の竜造寺政家、大村喜前松浦鎮信、有馬晴信、対馬の宗義調などは所領安堵。なお鍋島直茂が龍造寺家を執政するよう秀吉より命じられる。
  • 筑前の秋月種実高橋元種は日向へ減転封。種実は筑前などで36万石近い所領を持っていたが、3万石への大減封となった。
  • かつて日向の大名であった伊東祐兵は旧領復帰。
  • 小早川隆景が筑前・筑後(立花領以外)・肥後1郡。
  • 佐々成政に肥後1国。
  • 黒田孝高・長政父子が豊前6郡。
  • 毛利勝信に豊前小倉。

こうして九州征伐は終わりを告げ、秀吉は博多を主要港湾都市として復興すべく定め、6月19日には博多バテレン追放令を下令、キリスト教は禁教とされる(但し徳川家康が敷いた禁教令よりは遙かに緩く、庶民の信仰は目こぼしされ禁じられたのは大名の信仰のみであったが、その大名黒田孝高が洗礼を受けたりしているのでかなりアバウトな指示であった)。この帰路の際備後に立ち寄り、島津氏への九州太守というお墨付きを与えた、未だ征夷大将軍であった足利義昭を回収し京都で出家させりもした。

影響

これにより豊臣政権の支配権は西日本の全域に及び、残すところは東日本のみとなった。
ただしこの後も佐々成政に反発した肥後の国人が一揆をおこすなど、九州が安定しなかったこともあり、秀吉が東日本を平定するにはもう少し時間が必要となった。

余談ではあるが秀吉による支配下で、薩摩・大隅・日向の三国に押し込められた島津氏を逆に隆盛させたりもした。
上記の通り九州という土地は島津氏の他に少弐氏、龍造寺氏、大友氏といった土豪が非常に強い発言力を持ち、幾ら守護大名の座にある島津氏としても彼らに強く発言できるわけではなかった為、秀吉軍が侵攻すると薩隅日の国人以外は雪崩を打つように寝返っていったのは御覧の通りであった。一方で太閤検地を実施して石田三成が徹底して検地を行い土地の利権を明確化し、かつ先進土木技術を導入した結果、島津氏の薩摩は一国だけで表石高が22万5千石から56万石へと大躍進したのである。しかし配下の土豪は実石高を(当然の事ではあるが)申請分だけに据え置かれた為に島津氏は大幅な収入増を果たしたが土豪は惣無事令にて領土の切り取りを一切、封じられてしまったのでその恩恵にあずかれなかったのである。
 島津氏に限らず、先進技術を導入させ収入を増収させその増収分を忠誠の証しとして割り当てる、これが豊臣秀吉の富国策であった。島津義弘関ヶ原の戦いで西軍に与したのも案外、そういった個人的な恩を感じたからかも知れない。

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