概要
秋月氏16代当主。
天文17年(1548年)、筑前国の国人である秋月氏15代当主・秋月文種(種方)の次男として誕生。
弘治3年(1557年)、秋月氏では、毛利元就の調略に応じて大友氏に反旗を翻し、父・文種や長兄・晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、種実は家臣に連れられて古処山城の落城寸前に脱出し、毛利氏を頼って周防国山口に逃走した。
永禄2年(1559年)1月、秋月氏の旧臣・深江美濃守は毛利氏の支援を得て、種実を居城に迎えると、古処山城を占拠していた大友軍を破り、秋月氏の旧領をほぼ回復した。種実の弟・種冬は高橋鑑種の養子として豊前国小倉城に入り、種信は長野氏を継いで豊前馬ヶ岳城主となり、元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗した。
天正6年(1578年)に耳川の戦いによる大敗で大友氏が衰退すると、秋月種実は大友氏に再度反抗、龍造寺隆信や筑紫広門らと手を結んだ。さらに大友宗麟の「暴悪十ヶ条」を掲げて筑前とその周辺諸国へ触れ廻り、大友に背く者同士で連判し合った
天正12年(1584年)に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで敗死すると、種実は代わって勢力を伸ばしてきた島津義久に従属する。種実は大友軍の立花道雪が島津氏と龍造寺氏を挟撃しようという使者を出す前に、いち早く龍造寺と島津の和睦交渉の橋渡し役となり、なおも大友氏に反抗。島津氏と龍造寺氏の争いを回避し、島津氏が大友攻略に戦力を絞る役割を果たした。
天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定の軍勢が九州へ進軍した際に種実は、講和の使いと称して敵情を探らせるべく、重臣・恵利暢堯を秀吉の許へ派遣する。秀吉は圧倒的な富と物資動員力に支えられた自軍の威容を見せつけると恵利へ「降伏すれば種実へ筑前・筑後の二国を与え、恵利にも3万石を与える」とした。
復命した恵利は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言したが種実は恵利を面罵して退場を命じ、島津家との義盟に従い秀吉との抗戦を宣告した。これを思い留めさせるべく恵利は諌死に及んだが種実は応じず、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦い、敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により、秀吉軍の実力を明確に思い知らされることとなり、完全に戦意を喪失して降伏することとなった。
結果、秋月氏は存続を許されたが、秀吉の命令で日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封された。失意の種実は、家督を嫡男の種長に譲って隠居。慶長元年(1596年)9月26日、高鍋で死去。