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甲斐宗運

かいそううん

戦国時代の武将。肥後の名門・阿蘇大宮司家の筆頭家老で、その最期まで主家を支え続けた忠臣。
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生没:1515~1585

出身:日向国

主君:阿蘇氏(阿蘇惟豊阿蘇惟将など)


宗運は出家号であり、本名は親直(ちかなお)。

肥後国阿蘇・益城地方を収めた神主大名:阿蘇大宮司家に四代に渡って仕えた。

生涯六十余の戦に不敗であったという知勇兼備の名将。

生涯編集

若き日の奮闘編集

永正12(1515)年に日向国鞍岡の国人領主、甲斐親宣の子として生まれる。

この頃親宣は兄弟同士の争いに敗れて日向に逃れていた阿蘇惟豊を匿っており、親直が2歳になる1517年には惟豊の挙兵を助けて兄・惟長を追放。そのまま阿蘇家の家臣となり、肥後に進出する。

親直も元服後は阿蘇家の家臣として活動する事になり、父の死後家督を継承した。


親直がその名を周囲に知らしめたのは、1541年に謀反を起こした御船房行の討伐戦である。

御船房行は猛将であり御船城も堅城として名高かった事から苦戦が予想されるなか、討伐隊は親直の偽報・奇襲・伏兵といった巧みな戦術によって難なく御船城を制圧。これを喜んだ惟豊は御船城一帯を親直に与え、甲斐氏は阿蘇家の最有力家臣として遇されるようになる。


親直の活躍もあって阿蘇家は肥後に勢力を拡大させ、1549年に惟豊は朝廷から従二位に昇叙される。(従二位といえば右大臣に匹敵する高位で、今川義元ですら従四位下であることから破格と言える。)こうした宗運の武勇知略と惟豊の内政手腕によって、戦国中期の阿蘇家は黄金期を迎えたのだった。


阿蘇家の柱石編集

1559年に阿蘇家の全盛期を築き上げた惟豊が死去。1562年に親直は宗運と号す。

この頃から阿蘇家の周囲も慌ただしくなり、島津義久龍造寺隆信らが急速に勢力を拡大。阿蘇家は宗運の主導で東の大友宗麟、南の相良義陽と同盟を結んで勢力維持を図った。


しかし、この小康状態も1570年に大友家が今山合戦で龍造寺に敗れる事で崩壊。隈部親永・和仁親宗といった肥後北部の諸豪族が龍造寺側に与するようになり、更に1578年には頼みの大友家も耳川の戦いで島津に敗れ、南での勢力を島津に塗り替えられていく。


こうして南の島津家、北の龍造寺に挟まれた阿蘇家は存続の危機を迎えるが、宗運はここからが違った。


  • 1580年に北部諸豪族が阿蘇氏に対し挙兵するが、洪水で油断した所を奇襲し撃退(亘過瀬の戦い)。
  • 1581年に大友家と手を切って龍造寺と結び、南北朝からの因縁の相手だった島津に対抗。
  • 同年秋には相良家が島津家に下りに阿蘇領へ攻め込むも、これを得意の偽情報・奇襲によって撃退。敵の大将で相良家当主の相良義陽を討ち取る。(響野原の戦い)

こうした宗運の活躍で危機を脱した阿蘇家だったが、島津家との戦力差はもはや覆せない段階にあった。そこで1582年、宗運は島津との和睦を提案。しかし島津側の条件を一切飲まず、逆に奪われた領土の返還を要求するなど交渉を難航させた。


これは中央の勢力(信長など)誕生によって戦国の世が終わりに近づいていると読んだ時間稼ぎであり、実際先にしびれを切らした島津は次の標的を龍造寺家へと変えている。(沖田畷の戦い)


この間に大宮司惟将・その弟惟種が相次いで病死。新当主惟光はわずか3歳であったが、補佐役である宗運の器量をもってすれば十分島津とも渡り合える……ハズだった。


名将の最期編集

しかし1585年、宗運は突如この世を去ってしまう。

幼い当主に加えて宗運の嫡男・宗立は暗愚であり、死に際の父の遺言である


「こちらから島津に手を出さず、防衛に専念せよ。」

「いざとなれば諸将と矢部(阿蘇家本拠地)に籠り、中央の権力者が援軍にくるまで待て」


という訓戒を無視して島津領へ侵攻。無論反撃を受け、大名としての阿蘇家を没落させてしまうのであった。


人物編集

六十余戦に不敗の逸話が示す通り、聡明で武勇に優れた名将だった。

(本編で説明されていない多くの戦も、難なく鎮めている)


その器量は内外に知れ渡っており、島津家には


「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」


とまで言わしめるほどであった。

また、それほどの器量を持ちながらも下剋上によって阿蘇家から政権を奪おうとはせず、頑ななまでに主家に忠義を誓い、生涯を阿蘇家の為に費やした。


一方で主家への忠義から阿蘇家の方針に逆らう諸侯を数多く粛清しており、伊東家に内通した3人の息子も誅殺するなど、その忠誠心はねじ曲がった行いに至る事もしばしばだった。


後には父に異を唱えた嫡男・親英(宗立)をも殺そうとしたため、父親を宗運によって粛清されていた親英の妻による計略で孫娘に毒殺される最期を送ったという。自身で死の原因を作り、そのしわ寄せが彼の最も大切な阿蘇家に来たというのは、悲しき皮肉であろう。


しかしながら宗運の死後、阿蘇家は時代に翻弄されながらも生き残り、江戸時代に多くの大名家で藩祖の血筋が断絶する中で、名家として現代まで直系の子孫を残している。


宗運も草場の陰で喜んでいるでいるに違いない。


創作物において編集

その多くにおいて主家である阿蘇家を差し置いて活躍する事が多い。特に信長の野望においては甲斐宗運=阿蘇家のすべてと呼ばれるほどである。

戦国大戦編集

主君の阿蘇家を差し置き、ver1.20から参戦。2.5コストで武力8統率9槍足軽となかなかのスペック。

計略:不敗の領域は、陣形内の味方の部隊数に応じて自身への武力ダメージを減らすというシロモノ。

ただ、強力ではあるのだがダメージ計略には効果が無く、少々使いどころに悩む一枚である。

強化されるのが宗運だけだという点にも注意。

「我に従え さすれば活路は開かれん」


信長の野望編集

こちらでも主君の阿蘇家一門を差し置いて活躍する事が多い。

ゲーム中での阿蘇家は全盛期を築いた惟豊を除いて当主一族の能力がさほど高くないが、宗運は九州のみならず全国でも通用する高性能仕様。弱小だからと舐めていると痛い目を見ることになる。


正真正銘、阿蘇家の切り札であり阿蘇家の全てと言える存在。


※なお「天道」には、「蒼天録」以来ひさしぶりに甲斐親宣が追加され、息子に匹敵する高い能力値が設定されている(「蒼天録」の時は息子よりは孫の方に近い能力値だった)。


余談編集

講談や史書において甲斐氏の活躍は宗運の手腕によるものとされる事が多いが、実際は宗運を含めた甲斐氏自体が精強な武人集団であった影響も大きい。

九州山岳地帯に広く居住する甲斐氏は優れた傭兵集団(俗に言う高千穂党)であり、周辺の大名・豪族にとって無視できない存在だった。

その中で肥後(熊本)方面に進出した甲斐一族のボスとして阿蘇家に従い同胞をコントロールしていたのが宗運・親宣であり、彼らを傭兵から阿蘇家の家臣へと転換させたのが阿蘇惟豊である。

もちろん、宗運自身の手腕も卓越したものであった。


関連タグ編集

戦国武将 九州勢 阿蘇惟豊 阿蘇惟将 相良義陽 熊本県

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