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(注・画像中央の人物)

概要

先祖は大和源氏の一族である宇野氏で、肥後国の山鹿へ土着し菊池氏の家老となった家だが、親永の代にはほぼその支配から逸脱していた。

大友家が菊池氏へ事実上の乗っ取りを企図した際に協力し、他の菊池旧臣である城氏・赤星氏と共に大友従属の独立勢力となると、近隣の土豪である山鹿氏・有働氏らと結んで、赤星氏を追って勢力を拡大し、肥後北部に於ける最大勢力となっていった。とはいえ、北部の豪族は沢山存在し、中部の最大勢力である阿蘇氏や南部の相良氏には遠く及んでいないが。

その後、大友氏が耳川の戦いで島津氏に破れると、親永は龍造寺氏に鞍替えする。


天正8年(1580年)、未だ大友に従属する阿蘇氏を討つべく、同じ龍造寺氏に従属する合志氏、河尻氏、鹿子木氏、島津氏に従属する名和氏、城氏と共に白川且で対峙したが、夜半になり雨が降ったので戦はないものと油断し親永勢は酒盛りに及び、そこを阿蘇氏家老の甲斐宗運に攻められるという大敗の原因を作った。


天正12年(1584年)に龍造寺氏が島津氏に破れると、今度は島津氏に鞍替えし、天正15年(1587年)に豊臣秀吉九州征伐を始めるとすぐさま秀吉に恭順した。

肥後国人一揆

佐々成政が肥後一国の領主になり、その与力に組み込まれたが、秀吉自らに領地を安堵され御朱印を賜ったことからくる独立心から、成政の検地に猛反発。他の肥後豪族と一揆し反乱を起こした。


同年7月24日、佐々成政は6,000を率いて親永討伐のためその居城へと出征。すると親永家臣の多久大和守が離反し城内へ佐々勢を引き入れたため、親永は法体となり不仲ではあったが嫡子の親泰の住まう山鹿の城へ逃れた。

また、成政が隈部を攻めたことで他の肥後豪族は、明日は我が身とばかりに不安に駆られ、一揆は益々拡大していった。


同年11月下旬、親永らは籠城を続けていたが、浅野長政安国寺恵瓊が開城降参すれば上に取りなし本領安堵するという方便を真に受けて降参。そして、明日には小倉へ出船という晩に毛利勝信の家臣らに取り囲まれ、家臣は一人残らず討ち果たされた上、親永は息子ら10人の者共々立花宗茂に預けられる。


宗茂は親永親子らへ礼を尽くすべく、切腹ではなく放し討ち(互いに鎗を合わせた上で殺害する方法。討ち手側にも死者が出る可能性あり)とした。だが親永は既に老境に達しており、老いからくる体の痛みからロクに動けず、ムザムザと討たれたという。

子息

長男は隈部親泰で、親永とは不仲であったが国人一揆の際は協力し合った。

次男の名称は不明。龍造寺氏の人質になっていたが後に肥後へ戻り、天正11年(1583年)の肥前安徳城での合戦に参加し、安徳・島津連合と戦い戦死した模様。

三男・四男の何れかが有働兼元とされるが詳細は不明。

五男は内空閑鎮房で、霜野城主である内空閑鎮資が死亡し、その子である鎮照が幼少であることから養嗣子となっている。


うわぁぁぁぁぁ!

肥後国人一揆のきっかけを作った首謀者であるが、ハッキリ言ってどマイナー武将である。縦しんば名前は知ってても事績までは知らない人が多いだろう(実際、あまり記録は残ってない)。

だが、コーエーは彼に一筋の光(?)を与えた。

信長の野望」シリーズでのインパクトある「うわぁぁぁぁぁ!」と言ってそうなビックリ顔は二階堂盛義ほどではないが、プレイヤーたちの心を鷲掴みとしたのである。結果、極々一部でではあるが、その名を轟かせるに至った。


・・・・ところが、である。なんと「天下創生」からは至って普通の顔グラにされてしまった。いや、ややもすれば普通以下の地味~な顔にされてしまったのである。

果たして、ただでさえ事績もロクに伝わってない、2011年に山鹿へ銅像が建っても然して話題にも上らないどマイナー武将は、益々以ってそこより逸脱する機会を失ったのであった。

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