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浅野長政

あさのながまさ

浅野長政(長吉)とは戦国時代末期〜江戸時代初期の武将・大名。豊臣秀吉と姻戚関係にあったことからその政権下で奉行職として重用され、行政や大名の取次などに手腕を振るった。(1547年-1611年)
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プロフィール編集

生没年:天文16年(1547年)〜慶長16年4月7日(1611年5月29日、異説あり)

諱:長吉→長政

通称:弥兵衛

極官:従四位下、侍従

主君:織田信長(羽柴秀吉与力)→豊臣秀吉豊臣秀頼徳川家康徳川秀忠


血縁編集

実父:安井重継

実母:浅野長詮娘

養父:浅野長勝

養母:七曲殿(杉原家利娘)

正室:やや(長生院、長勝娘)

実兄:安井氏次

実弟:安井兼継

子女:浅野幸長、長晟、長重 他


概要編集

室町末期から江戸初期にかけて活躍した戦国武将。浅野宗家14代当主。初名は「長吉」。著名な長政の名乗りは秀吉薨去後から用いたものである。


妻方の実家にして婿入り先の浅野家を通じ、のちの天下人・豊臣秀吉とは最も近い姻戚関係にあり、その秀吉の数々の戦いや、天下人としての地位確立後の政権運営に尽力したことで知られる。一方でその秀吉に対して、朝鮮出兵の折に命を賭してまで渡海を思い留まるよう諫言に及んだとの逸話からも窺えるように、剛毅な側面も持ち合わせていたようである。

また、同じく秀吉股肱の家臣として知られる蜂須賀正勝(小六)とも、母方の従兄弟に当たると見られている。


後述の通り、徳川家康とも関係が深いことで知られており、小田原征伐に際して度々家康の「配慮」を警戒視する石田三成に対し、長政は反論に及ぶだけでなく自ら安全を証明するなどして秀吉の懸念を晴らし、家康もまた前述の秀吉へ諫言の折に、長政の助命を秀吉に対しとりなしてもいる。

また両者とも囲碁を好み、互いに実力が伯仲していたことから、晩年長政が家康に近侍するようになってからは良き囲碁相手として、しばしば対局に及んでいたという。対局に熱中するあまり、時に長政が家康に憎まれ口を叩いたり、本因坊算砂が対局中に家康に助言した際には腹を立てたりといった、囲碁にまつわる逸話も複数残るほどである。


一方、お互いに鼻っ柱の強い三成との関係は最悪であり小田原で家康を擁護した一件、朝鮮出兵の際に彼と共に秀吉自らの渡航に反対を示した件などもあって、激しく嫌悪し合っていたとされ、同じく三成嫌いである嫡男の幸長共々、三成との不仲にまつわる逸話も幾つかある。

その事もあってか、三成と共に五奉行となり、秀吉の遺言から自らが筆頭格に任命されたにも拘らず彼からは反発され続け、前田玄以増田長盛長束正家といった他の五奉行の三人も三成に同調する形になっていた等、他の五奉行とは折り合いが非常に悪く、半ば孤立した状態にあった。

そして秀吉の死からわずか数日後、三成を中心とする四人の五奉行達は、五大老毛利輝元を証人に「豊臣政権を守る為に、秀頼の意向よりも五奉行の意向を優先させる」という起請文を勝手に交わす行動(秀吉の「徒党を組んではならない」という遺命破り)に乗り出し、これが切っ掛けで家康と三成の政争が始まり、やがて関ケ原の戦いにまで至ってしまう事態となった。


生涯編集

前半生編集

宮後城(現・愛知県北名古屋市)の城主・安井重継の次男として生を受ける。

叔父(母の弟)に当たる浅野長勝に男児がいなかったことから、長勝の娘であるややの婿養子に迎えられ、浅野家の家督を継ぐこととなる。

また、同じく浅野家に養女として引き取られていたのが、長勝の義理の姪(妻の姉妹の子)で後に木下藤吉郎(秀吉)に嫁ぐねねであり、その縁もあって浅野家の主君に当たる織田信長から、秀吉の与力になるよう命じられることとなる。その秀吉の下では、元亀元年(1570年)の「金ヶ崎退き口」においては秀吉の弟の木下小一郎(豊臣秀長)や正勝・重継・長勝らの親族と共に木下勢の一員として朝倉義景浅井長政の軍勢と戦った。天正元年(1573年)の浅井攻めにおいて戦功を挙げ、戦後に秀吉が小谷城主(後長浜城主)となると、近江国内に120石を与えられた。



豊臣政権下にて編集

信長死後も引き続き秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでの戦功の褒美で近江大津に2万石を、そして九州征伐の後には若狭小浜8万石を与えられ、国持大名となるにまで至った。武将としてのみならず、吏僚としても卓越した手腕を発揮しており、天正12年(1584年)には京都奉行職に就任、後に豊臣政権下で実施された「太閤検地」の実施にも携わった他、諸大名から没収した金銀山の管理も任されていたという。


東国の大名との関係も深く、小田原征伐では忍城攻めに際してその終盤戦を主導、続く奥州仕置や葛西大崎一揆、九戸政実の乱などでも中心的な役割を果たしている。陸奥三戸(のち福岡)の南部信直とは、この頃から政権への取次役という立場で関係を強めており、南部氏以外にも東国の諸大名の取次を担うこととなる。

ただ、その職務状況については必ずしも良好であったかどうか、疑問符が付く部分もない訳でもない。事実、陸奥岩出山伊達政宗からはその職務怠慢を理由として絶縁状を突きつけられたことがあり、両家が和解に至ったのは何と400年ほど後の平成年間になってからであった(※)。また、与力としていた下野の宇都宮国綱が突如改易に処された件にも、長吉が何らかの形で関与していたことが、隣国常陸の佐竹氏の書状からも窺える。


それでも、文禄2年(1593年)には朝鮮出兵での功績から、甲斐府中21万5千石を与えられており、長吉は自身が上方に詰めている都合上嫡男の幸長に領国経営を任せつつ、引き続き奉行としての活動も継続している。


(※18世紀始めに当時の芸州(広島)藩主の浅野吉長が伊達家との和解を幕閣や親戚らより勧められ、吉長も紆余曲折を経てこれに応じる姿勢を示していた。しかし、当時の仙台藩主の伊達吉村が家中の反対もあり拒否したため和解には至らなかったという経緯もあった。)


秀吉薨去後編集

慶長3年(1598年)の秀吉薨去に伴い、豊臣政権は所謂五大老・五奉行による合議で運営されていくこととなった。

長吉改め長政も、五奉行の一人として政権運営に引き続き参画しているが、五大老の一人である家康とは予てより親子共々近しい関係にあったことなどから、その家康と対立する立場にあった他の奉行衆とは折り合いが悪かったと伝わっている。中でも三成とは、常陸佐竹義宣との書状の中で長政の動向を三成が密告してきたとの記述も認められることなどから、不仲とまでは言えないにせよその関係は微妙そのものであったことはほぼ間違いないと見られている。

そして三成との関係がより険悪であったのが、嫡男の幸長であり福島正則加藤清正黒田長政細川忠興池田輝政加藤嘉明蜂須賀家政藤堂高虎脇坂安治と共に反三成の急先鋒だった。そして前田利家没後に七将襲撃事件を起こしている。


翌慶長4年(1599年)、前田利長(利家の嫡男)らとともに家康暗殺の嫌疑をかけられた長政は、武蔵府中に謹慎の上で幸長に家督を譲り、隠居の身の上となった。もっともこの一件については、予てより近しい関係にあった長政や利長を、反家康勢力より分離させようという家康の深謀遠慮があったとする説も呈されており、長政もこれを承知の上で謹慎処分を受け入れたとの見方も残されている。

ともあれそうした事情もあり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは息子たち共々東軍に属し、先鋒として岐阜城攻略や関ヶ原本戦で幸長が活躍を見せる一方、長政自身は秀忠率いる中山道方面の軍勢に従軍した。

戦後の論功行賞で、幸長がその活躍ぶりを認められ紀伊和歌山37万石に加増転封され、次男の長晟も徳川秀忠の小姓を務める中、長政は江戸幕府の成立後には家康に近侍するなど、引き続きこれと近しい関係を保った。最晩年の慶長11年(1606年)には、幸長とは別に常陸国真壁に5万石を隠居料として与えられ、慶長16年に65歳で没した際にも当地の真壁陣屋にて最期を迎えたという。これについては異説もあり、下野国の塩原温泉に滞在していた際に亡くなったとも、また忌日についても1日早い4月6日であるとも伝わっている。


長政の没後、真壁5万石はすでに真岡藩を立藩していた三男・長重が、これを返上する形で継承。後に長重が笠間藩主に転じた際に真壁領も笠間藩へと併合されているが、その息子の長直の代で播磨赤穂藩へと国替えとなった。後年、「忠臣蔵」で知られる元禄赤穂事件の当事者となった浅野長矩(内匠頭)はこの長重の孫、即ち長政の玄孫に当たる。

また、浅野宗家は跡を継いだ幸長が、長政が没してから程なくして早逝したため、幸長の弟(長政の次男)で備中足守藩主だった長晟がこれを相続、以降も芸州藩への移封を経て現代に至るまで存続している。


関連タグ編集

戦国時代 戦国武将

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豊臣秀吉 ねね 伊達政宗 徳川家康

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