概要
プロフィール
生没:1536年(天正5年)〜1591年11月6日(天正19年9月20日)
官途名:左近将監
通称:五郎?
室町幕府からは南部宗家と同列の武将と見られており、関東衆九戸五郎とは政実のどちらかを指すとされている。
生涯
南部氏一族。九戸信仲の長男。南部氏始祖である南部光行の六男・九戸行連から数えて九戸氏11代当主とされる。
政実は武勇優れ独自に勢力を拡大し、安東氏や奥州斯波氏との戦いで手柄を立てている。
南部氏24代当主南部晴政には男子がなかったため、1565年(永禄8年)、叔父・石川高信の長男で晴政自身の従兄弟に当たる田子信直を、長女の婿養子として世継とし、次女は政実の弟・九戸実親に嫁がせた。
しかし1570年(元亀元年)、晴政に長男・南部晴継が生まれる。更に天正4年(1576年)には信直の妻が没すると、信直は世継を辞して三戸城から出るが、晴政は信直に不信を抱き刺客を放ったこともある。逆に信直も手勢を率いて襲撃してきた晴政を反対に狙撃している。晴政は九戸氏を頼みし信直も北信愛・南長義らと結び互いの関係は悪化させて行き、政実と信直も互いにいがみ合うようなる。
1582年(天正10年)、晴政が病死し、晴政の跡は実子の晴継が継いだが、父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまう(病死説有り)。
急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定(会議)が行われた、実親と信直が候補に挙げられた。評定では実親を推す空気が強かったが、北信愛が事前に根城南部氏の八戸政栄を調略していたこともあり、信愛・長義・政栄らに推された信直が後継者に決まった。政実としては弟を差し置き、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還し
九戸政実の乱
1586年(天正14年)から南部家惣領を自称、豊臣秀吉による奥州仕置を完了した翌1591年(天正19年)、信直への正月参賀を拒絶し、3月に挙兵し南長義の孫・盛義を討ち取った。
元々南部家の主戦力であるため信直は苦戦し単独での鎮圧は出来ず秀吉に鎮圧軍派遣を要請。秀吉からすれば惣無事令違反どころか公然たる謀反でしかなく、そして総大将を豊臣秀次とし蒲生氏郷・浅野長政・石田三成らの上方勢による九戸追討軍が差し向けられる。これに小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季・津軽為信ら北東北の諸将も参陣し南部勢と含めて六万を超える大軍になった。政実は五千の兵で九戸城へ籠城し互角以上の戦いを見せたが疲弊し抗戦を諦める。そして実親と共に出家して討伐軍に降伏したが許されず二人は斬首された。享年56歳。その後、包囲軍は城に乱入し政実の兵や家族を撫で斬りにした。首は家臣たちが持ち帰り九戸神社に埋葬した。九戸氏は滅亡したが信直に味方した政実や実親の弟である中野康実(信仲の四男)が生き残り子孫は南部藩において北氏や八戸氏などと共に重んじられた。
人物
- 馬術に長けていたといわれる。家臣には鉄砲の達人・工藤右馬之助がいた。
- 地元の人々に慕われ、「九戸政実プロジェクト」が立ち上げられ、九戸城(福岡城)があった場所を史跡に登録。さらには政実のマンガも作られた。
フィクションにおける九戸政実
ゲーム
覇王伝から登場。晴政と共に南部氏の武の主戦力。一貫して武勇は高めだが政治や智謀は低め。
小説
- 天を衝く
高橋克彦著。