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岡左内

ざいてくさむらい

戦国末期から江戸時代初期の武将。蒲生氏郷・秀行や上杉景勝に仕える。一風変わった趣味を持っていた。諱は定俊とされる。
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概要

詳しい生没年月日は不明。

名字は岡野とも表記されたりする。


経歴

若狭太良庄城で生まれた後暫くは浪人として活動していたが、蒲生賦秀(氏郷)に見出され仕え戦功をあげる。その後は日野→松阪→会津若松と氏郷に付き従う。しかし1595年に氏郷は亡くなり秀行が継いだ後に蒲生騒動が起き、蒲生家は石高を大幅に減らされ宇都宮に転封されてしまう。そこで左内は「今の蒲生家は自分がいると負担になってしまう」と蒲生家を到仕、入れ替わりで越後から会津に入ってきた上杉景勝に仕える。ここでも重臣として重宝されたが結局上杉家は関ケ原の戦いに負けて減俸、かわりに加増され会津に戻った秀行に再び仕えることになった。

晩年の事蹟は不明だが、岡家は蒲生家が今治に移り忠知(秀行の次男)の代に無嗣断絶した際に黒田忠之長政の子。黒田騒動で有名)とかに仕えたとされる。


逸話

お金にまつわるエピソードが多い。


軽輩の頃から財テクに巧みであり、部屋中に金銭を敷き詰めて、その上で裸になって昼寝するのが趣味であり、それが知られた当初は「守銭奴っぽいけど武士としてどうなんです、それ?」と周囲から白い目で見られていた。


だが、北条氏政氏直征伐の時氏郷が配下を招集すると、左内はその金を利用し武具も馬も気合を入れたものを揃えて馬揃(閲兵式)に参加。自分が金を集めていたのはいざという時に人一倍戦場で働くためだということを示し主君・氏郷をはじめとした周囲の評価を改めさせる。


また上杉家に仕えていた時も、会津征伐の時に溜めていた金銭を「金というのは溜めるときは溜め、使う時は使うものです」と景勝に貸し出して上杉家の軍備を確保した上に、敗北が決定したあと借財に困っていた家中の者の借金の証文を焼き捨ててチャラにしてから秀行の元に戻るという太っ腹をみせ、直江兼続にその人物を惜しまれた。



一方で腕も立ち、関ケ原の戦いの時に伊達政宗が福島方面を攻撃して発生した松川の戦いでは本庄繁長須田長義らと共に伊達軍を撃ち破り政宗を討ち取る一歩手前まで追いつめたという。人取橋の戦い以来の大ピンチに陥った政宗は恥も外聞も捨てて粗末な武具に身を包んで誤魔化し肉薄してきた左内から命からがら逃げ切ったらしく、そのことを後で知った左内は「なんてこったい、そんなことならもっと粘って討ち取ればよかったよ畜生!」と悔しがったという。


創作では


上田秋成の雨月物語にて貧富論として登場し主人公としてお金の精霊と語り合う物語が収録されている。


また、関ケ原当時は上杉景勝に仕えていたというのもあって、直江兼続前田慶次と一緒に登場したことも。


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