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本庄繁長

ほんじょうしげなが

本庄繁長とは、上越地方の戦国武将。その武名の高さ故に度々の反乱にも関わらず帰参を許され、「武人八幡」「上杉家に鬼神あり」とまで讃えられた猛将として知られる。(1540年-1614年)
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概要

上杉謙信景勝と二代に亘って仕えてきた、越後上杉氏の重臣。本庄氏は元は秩父氏の流れを汲む支族のひとつで、戦国期には同じく下越地方に勢力を有する他の国人たちと共に「揚北衆」に属していた。

馬術の腕前に長け、少数の兵を駆使した巧みな戦いぶりを得意とした猛将として知られており、謙信配下の「上杉二十五将」の一人としても数えられる。他方で、上杉氏からの自立傾向の強い揚北衆に属していた故に、一度は謙信に反旗を翻した他、領内での一揆煽動の嫌疑をかけられた事もあるなど、主家であるはずの上杉氏とは対立する事もしばしばであったが、にも拘らずその度に帰参を許されたのもひとえにその武勇の高さによるところが大きいと言えよう。
また景勝の在世時には新発田重家の乱や松川の戦いなどで上杉氏の危地を救い、関ヶ原の戦いの後の徳川方との早期講和にも尽力するなど高い功績も残しており、景勝からは後述の通り上杉一門として遇されるなどの厚遇も受けている。

生涯

気性剛強の猛将

天文8年12月4日(1540年1月12日)、本庄房長の子として生を受ける。幼名は千代猪丸。
繁長の生涯は幼少の頃から波乱に満ちたものであった。というのも誕生より遡る事少し前、天文7年(1538年)頃より上杉定実(越後守護)が伊達氏より養子を迎えるのを巡って、揚北衆の内部でも深刻な対立が生じており、その過程で父・房長も利害が衝突した鮎川氏や色部氏と衝突の末、鮎川の支持を受けた弟の小川長資の謀反に遭い憤死に至っていたのである。繁長誕生のわずか数日前、天文8年11月28日の事であった。
当主を失った本庄の家臣団は、誕生間もない繁長を新たな当主として擁立するも、当然ながら幼少の繁長に満足な政務が取れる訳もなく、父の仇ともいうべき小川長資に後見を任せざるを得ず、その長資も繁長を蔑ろにするなど家中で専横を振るう状態が長年に亘り続いた。
しかしこうした叔父の専横を、繁長もただ黙って耐えるつもりはなかった。天文20年(1551年)8月、自らが催した父の十三回忌の法要に際し、繁長はこれに参列した長資を耕雲寺にて捕縛し、自害を申し渡すとともに当主としての実権を取り戻した。繁長の「気性剛強で勇猛」と謳われたその一面は、弱冠13歳にして既に遺憾なく発揮されていたのである。

その後しばらくの間は独立独歩の姿勢を取っていた繁長であったが、やがて長尾景虎(後の謙信)の家臣に加わり、関東出兵や川中島の戦いなど長尾氏による軍事行動に従い、後者では色部長実(長真)や新発田長敦らと共に武田義信隊を撃退、危地にあった謙信の本隊を救うなど数々の戦功を挙げている。このように上杉家中においても有名を馳せていた繁長にしかし、前途が暗転する事態が迫りつつあった。

謙信への反乱

永禄11年(1568年)、繁長は謙信の命を受け、予てより謙信と対立していた長尾藤景・景治兄弟を酒宴に招いて誅殺に及んでいる。ところが、手傷を負ってまでも主命を果たした繁長に対する謙信からの恩賞はなく、以前からの戦功に対する恩賞の薄さなども相俟って、繁長は謙信への不満を募らせつつあった。
ここに目をつけたのが甲斐の武田信玄である。信玄からの調略を受けた繁長は、謙信が能登・越中へと進軍している隙を突いて他の揚北衆に協力を呼びかけ、謙信に反旗を翻すに至った。
しかし繁長の呼びかけに対し、鮎川や色部、中条といった他の国人たちはこれに与せず謙信に従い、已む無く繁長は本拠の本庄城にて籠城の上、武田軍の来援を待たざるを得なくなってしまった。その武田軍にしても、この時信玄が越後方面だけでなく、駿河においても今川・北条と戦端を開いていた事を考えれば、積極的な支援は到底望めるものではなかった。

それでも南北朝期より関係の深かった、庄内の大宝寺氏の支援を得て、上杉方への頑強な抵抗を継続し、大宝寺氏の降伏後も1万にも及ぶ上杉軍の攻囲を物ともせず、防戦だけでなく夜襲をもって死傷者1000名にも及ぶ打撃を与え、色部勝長(長実の兄)らをも討ち取るなど、一連の籠城戦を通して繁長の勇名はさらに高まる結果となった。
もっとも、永禄12年(1569年)に入ると流石に単独での防戦にも限界が見えつつあったようで、繁長は伊達・蘆名を介しての講和を模索し、結果自身の一時蟄居と、嫡男の千代丸を謙信の人質として差し出す事、この二点を条件に講和が成立。およそ1年にも及んだ反乱は一応の終息を見た。

一命こそ取り留め、また謙信への帰参も許されたとはいえ、自領の一部を没収され鮎川氏に与えられた上、謙信存命のうちは表立った活躍の機会も得られずに終わるなど、この反乱のツケはその後も長く尾を引く事となる。

繁長の再起

天正年間に入ると、当時謙信と衝突していた織田信長の働きかけにより、伊達から繁長に対して再度の謀反を促す動きもあったとされるが、少なくとも謙信没後に発生した御館の乱に至るまで、繁長に表立った動きは確認されていない。
その御館の乱においては、先の鮎川氏との確執などもあっていち早く上杉景勝方につき、本領回復を目指して鮎川氏と抗争を繰り広げた。内乱は景勝方の勝利に終わり、繁長も上杉景虎に従った嫡男・顕長の廃嫡を余儀なくされるも、一方では景勝からの信頼を獲得し、揚北衆の重鎮としての地位を確立するに至っている。
御館の乱終息後の天正9年(1581年)頃より、戦後の論功行賞を巡る不満から同じ揚北衆の新発田重家が上杉氏への反乱を起こしており、繁長は色部長真と共に反乱への押さえを景勝より命じられ、以降も反乱終息までの間上杉方の主力として新発田方と相対した。
またこの頃、景勝からは上杉氏の家紋である「竹に飛雀」の紋の使用と、御館の乱で景虎方に与して戦没した上杉景信(繁長の岳父に当たる)の名跡を継ぐ事を許されており、事実上上杉一門として遇されることとなった。同時期に景勝が豊臣秀吉に謁見すべく上洛した際には、繁長がその留守を任せられるなど、謙信在世時とは一転した厚遇の数々に浴する格好となったのである。

さてこの頃、庄内の大宝寺氏は最上義光の圧迫を受けており、繁長もこれを阻むべく大宝寺氏への支援を継続、さらに大宝寺義興の要請により繁長の次男を養子として送り込んだ(大宝寺義勝、後の本庄充長)が、これが却って最上派の庄内国人の反発を招き、義興の討滅と最上による庄内制圧という事態を招いていた。
これに対し、天正16年(1588年)に繁長は義勝と共に、義光が伊達政宗との抗争に忙殺されている間隙を縫って庄内へと侵攻、最上軍を打ち負かした(十五里ヶ原の戦い)。これにより再び庄内は大宝寺氏の手中に収まり、対する最上からは秀吉に対し「惣無事令」への違反を根拠に、繁長父子による庄内侵攻の不当性が訴えられたものの、結局景勝を通した折衝の末に豊臣政権からは、大宝寺氏の上杉の与力大名としての立場と、庄内の支配権が公認されるに至っている。
ところが天正18年(1590年)、豊臣政権の意向により景勝が由利・仙北において検地を行い、これが一段落して景勝が帰国に及ぼうとした矢先、検地に反対する在地の領主・領民らによる一揆が発生(仙北一揆)。この一揆は庄内さらには大崎・葛西にまで飛び火するなど大規模なものとなったが、ここで繁長は思わぬ痛手を被る事となる。
というのも先の由利・仙北での検地の最中、繁長は色部長真と諍いを起こしており、これが原因で庄内の藤島一揆煽動の嫌疑をかけられてしまったのである。繁長・義勝父子はこの一件により改易の上大和へ配流となったが、程なく始まった文禄の役への参陣の折に景勝より帰参を許され、慶長3年(1598年)の会津転封の際には田村の守山城代に任じられた。

松川の戦いと終戦工作

慶長5年(1600年)、徳川家康主導による会津征伐が石田三成ら奉行衆の決起によって中断され、その後の抑えを任された最上・伊達と、上杉との間で緊張状態が続く中、8月に繁長は須田長義と共に伊達への抑えを任され、守将として福島城に入った。
その後上杉による最上領への侵攻が失敗に終わり(慶長出羽合戦)、中央でも関ヶ原の戦いが東軍勝利に終わる中、伊達軍の福島侵攻もいよいよ現実のものとなった。10月に入り福島城は片倉景綱ら率いる伊達軍2万の攻撃を受けるも、繁長は敵方の突出を逆手に取っての挟撃でこれを挫き、また梁川城にあった須田勢が伊達の小荷駄隊へ襲撃を加えた事もあり、自軍の二十倍もの兵力を有する伊達軍を相手に一歩も退かぬばかりか、逆に手痛い打撃を与えこれを後退せしめた。
この後梁川城への調略も不首尾に終わった事もあり、伊達軍は再度の福島城攻めを断念し撤退を余儀なくされた。この一連の戦いでの活躍と福島城死守の事実は、老境にあった繁長の勇名をさらに広く世に知らしめたが、一方でこの頃上杉氏は別の面において苦境に立たされていた。

前述の通り関ヶ原の戦いは既に終結しており、上杉氏は最上や伊達からの攻撃を防ぐのと併せて、徳川への対応をどうすべきかという難題に直面していた。
予てから徳川に対し敵対姿勢を取っていた直江兼続らは、事ここに至ってもなおも徹底抗戦を唱えていたが、これに対して繁長は千坂景親らと共に徳川との早期講和を主張。景勝も世間に広く武名が知れ渡っている繁長であれば、徳川とも対等に交渉出来るであろうと判断してか、最終的に後者の言を容れ講和を決断。11月には繁長が上洛し本格的な終戦工作が開始され、奔走の末に会津120万石から米沢30万石への大幅な減移封とはなったものの、すんでのところで上杉氏の存続が許される事となったのである。
米沢への移住後も、引き続き福島城代として家中の再建に尽力した繁長は、慶長18年12月20日(1614年1月29日)に74年の天寿を全うした。生前の武勇に対し、景勝は「武人八幡」の称号をもってこれを讃えている。家督は大宝寺義勝が本庄氏に復帰し、名を本庄充長と改めた上で相続、以降の子孫も福島から鮎貝へ移りながらも御役屋将として、幕末に至るまで家名を保った。

関連タグ

上杉謙信 上杉景勝
直江兼続 - 上杉氏重臣として共に景勝を支えた他、繁長の三男(長房)が一時期兼続の養子として迎えられていた事もあった。

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