概要
天文5年5月3日(1536年5月22日)、千坂景長の子として誕生。千坂氏は上杉氏の四家老の一つで、上杉謙信が上杉氏を継いだ際、謙信に仕える。
景親は、本陣にて謙信を警護する立場にあったため(謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はない)、謙信の他の重臣と比して景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない。
謙信の没後、上杉景勝が後を継ぐと彼に仕える。
景親は合戦での活躍はほとんど無いが、外交・情報収集能力には優れており、景勝のもと上杉家の外交役として活躍した。
天正14年(1586年)、景勝の上洛に従い、6月16日(8月1日)には大坂城で直江兼続と共に千利休の手前で茶を頂いた。
文禄4年(1595年)に伏見城普請総奉行に任命された。そしてその功績が認められ、11月に伏見留守居役となる。これに伴い、菊姫(景勝の正室)の警護役になった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにて主君・景勝が属した西軍は、徳川家康率いる東軍と対立。西軍が敗北したため、景親は本庄繁長と共に、景勝に家康と和睦するように主張し、繁長と共に本多正信(徳川家重臣)との折衝役を務めた。その結果、上杉家は存続を許されたが、米沢に改易された。
慶長11年4月24日(1606年5月30日)、江戸で71歳にて他界。家督は養子・高信が継いだ。