概要
越後北部に勢力を持つ国人からなる「揚北衆(阿賀北衆)」に属し、当初は同族である五十公野氏の家督を継いで五十公野治長(いじみの はるなが)と名乗っていた。主君である上杉謙信の下で数々の戦功を挙げ、謙信死後に勃発した御館の乱においても上杉景勝を支持してその勝利に貢献している。
しかし乱の終結後、その戦功に見合った恩賞を受けられなかった事から景勝に対し不満を募らせるようになり、やがて周辺勢力による工作もあって主家へ反旗を翻す事となる。地の利なども活かしての頑強な抵抗、それに御館の乱後の国力の疲弊なども味方し、反乱は実に6年余りもの長期にも及んだが、後ろ盾であった蘆名・伊達両氏の方針転換や、景勝が豊臣秀吉の支援を取り付けるなど戦局は次第に不利に転じ、終には壮絶な自刃をもってその生涯に幕を引いた。
結果的に重家は敗れこそしたものの、この反乱によって上杉氏の支配体制の抱える致命的な問題点が浮き彫りにされたと同時に、反乱の遠因となった御館の乱と併せて先代・謙信在世時の勢威から一転、上杉氏の存亡すらも危うくなるという事態にまで発展している。
勝者である景勝も、国人衆の独立性を抑え中央集権化を達成したとはいえ、後ろ盾として助力を求めた豊臣政権の傘下に入る事によって当の上杉氏の独立性もまた、大きく削がれるという皮肉な結果となった。
創作作品においては影の薄い、ともすれば端からスルーされがちな人物ではあるものの、以上の点において越後上杉氏を語る上では良くも悪くも、まず無視出来ない存在であると言えよう。
生涯
前半生
天文16年(1547年)、新発田城主・新発田綱貞の次男として生を受ける。実兄に長敦、義弟に五十公野信宗(長沢義風)がいる。時期は不明だが同族の五十公野弘家に子がなかった事もあり、その養子として五十公野氏の家督を継いでいる。
永禄4年(1561年)の小田原城攻めで初陣を飾ったのを皮切りに、兄・長敦と共に青年期から上杉氏による数々の合戦に参加、同年に発生した第四次川中島の戦いにおいては武田軍の武将・室住虎光(諸角虎定)を、治長も属する新発田勢が討ち取ったとも伝わっている。
それから十数年後が過ぎた天正6年(1578年)、上杉謙信が急逝するとその二人の養子(上杉景勝・上杉景虎)を中心に家中は分裂、やがて内乱状態へと発展していく(御館の乱)。発生当初、治長は景虎方に与していたものの、安田顕元の調略により景勝側へと転向。同族の加地秀綱、それに神余親綱など景虎側の諸将の討伐のみならず、蘆名・伊達による介入をも阻止している。また兄・長敦も斎藤朝信と共に武田勝頼との和議締結に尽力しており、この内乱においても兄弟共に多大な活躍を見せた。
これだけの武功を上げたからには、相応の恩賞も与えられるものと期待していた二人であったが、戦後その期待は呆気なく裏切られる事となる。景勝はその恩賞の多くを子飼いの「上田衆」に与えた一方、長敦や治長を始めとした揚北衆の功績を軽んじるかのような対応を取ったのである。中でも三条城が、自身ではなく甘粕景持に与えられた(※)事は、同城攻略に際しての五十公野勢の奮戦ぶりや、義弟・長沢義風が町奉行を務めていた経緯などもあり、特に遺恨の残るものとなった。
御館の乱の発端が、越後の有力国人に対する高圧的な姿勢にあった(三条手切)とする見解が近年呈されている事などからも窺えるように、元々景勝には乱の前後を通して、上田長尾氏を中心とした大名権力の強化と、配下である有力国人勢力の抑制を強く志向していた節があり、前述した上田衆偏重ともいえる戦後処理についても、そうした施策の一環であったと見られている。
いずれにせよ、こうした景勝の対応に治長ら国人衆が当然納得出来る訳もなく、上杉家中では恩賞問題のもつれに端を発した刃傷事件により、重臣の直江信綱らが命を落とすという事態も発生していた。
上杉氏への反乱
こうした恩賞を巡る混乱と不満が燻る中、天正8年(1580年)に兄・長敦が病を得て死去したのを受け、治長も新発田姓に復して家督を相続の上「重家」と改名。これに伴い空位となった五十公野氏の家督は、義弟・信宗が継いでいる。
しかし懸案であった先の内乱に対する恩賞は、この新発田氏の家督相続と本領安堵のみに留まる結果となり、同時期には重家と景勝との仲裁に尽力していた安田顕元が自害に及んでいる。この自害は、御館の乱において重家らを景勝側へ引き込みながらも、手厚い恩賞を与える事が出来なかった事への謝罪、そして仲裁が不首尾に終わった事に対する責任を取るという意味合いを含んだものとされる。
顕元の死によって上杉氏との交渉役を失った事で、より一層不満と不信感を募らせるばかりの重家に目を付けた者たちがいた。先の乱で景虎側を支援していた蘆名盛隆(※)と伊達輝宗である。彼らが後ろ盾につく事を申し出た事により、上杉氏への反旗を翻す決意を固めた重家は、一門衆や同族の加地衆、それに周辺の旧景虎側の勢力を糾合し挙兵、いち早く制圧した新潟を拠点と定めた。時に天正9年(1581年)6月の事である。
上杉氏にとって、重家の反乱は正に最悪なタイミングでの出来事であった。御館の乱とその事後処理による混乱から、越後の国力は相当な疲弊を極めており、加えてこの頃は柴田勝家を中心とした織田氏の北陸方面軍による攻勢も激化するなど、総力をもって反乱を鎮圧する事が困難な状況にあった。
已む無く景勝は、同じ揚北衆に属する本庄繁長と色部長真(重家の義弟でもあった)に反乱の抑えを命じ、翌天正10年(1582年)には本格的な鎮圧に着手するも、蘆名氏の援護などもあって敢え無く撃退されてしまう。
これ以降も本能寺の戦いや天正壬午の乱を経て、織田や北条など周辺勢力の圧力が軽減された事を受け再度の鎮圧に当たるものの、重家ら新発田方は上杉方の兵糧の欠如や、湿地帯を活かした頑強な抵抗を継続。天正11年(1583年)の放生橋の戦いに至っては未遂に終わったものの、景勝を討ち取る寸前にまで追い込み勢力を拡大、さらに越中の佐々成政と連携して挟撃をも画策するなど、天正12年(1584年)の秋頃までの2年余りは新発田方優位のまま、戦局は推移していた。
(※ 他方で、当時の蘆名氏は上杉氏と同盟関係にあり、当時赤谷城主を務めていた小田切盛昭に対して「上杉に助勢するな」との命こそ下されているものの、少なくとも盛隆在世時には重家に対する積極的な支援はなかったのでないか、とする見解も近年示されている)
反乱鎮定
この優勢な状況も、天正12年10月の蘆名盛隆殺害事件を境に大きく変化していく事となる。盛隆の死によって蘆名家中では家督争いが勃発、蘆名からの支援態勢にも動揺をもたらす一方、この家督争いへの介入失敗に端を発した対立や、新当主・伊達政宗の方針転換などもあり、伊達が重家への支援を打ち切るという事態をも引き起こした。
同年には新潟城や沼垂城を始めとする新発田方の拠点が、この頃上杉氏に仕えるようになった藤田信吉の調略によって上杉方に抑えられてもおり、蘆名からの支援の下で粘り強い抵抗こそ継続していたものの、兵糧・物資の欠如も深刻化の一途を辿っており、新発田方が劣勢に転じたのは最早目に見えて明らかであった。
また上杉方も、天正14年(1586年)に景勝が上洛し羽柴秀吉に臣従した事で、今度は上杉方が豊臣政権という強力な後ろ盾と、「豊臣政権による全国統一事業」という大義名分を得る格好となった。
もっとも、これによって反乱鎮定が一気に加速したかというとそうでもない。この頃豊臣政権の中には、当時対立中であった徳川家康との戦いに備え上杉勢を円滑に動員させるため、もしくは後々の北条攻めを見越してその戦力として組み込むため、重家を生かす形で早期解決を図ろうとの考えもあったと見られている。
実際に景勝の元にも秀吉から、重家への降伏勧告(と、それに伴う助命の条件)が送られており、その意向を受けて景勝も新発田方へ使者を派遣しているが、具体的な返答の内容こそ不明なものの重家はこれを拒否しあくまで徹底抗戦の構えを維持した。ともあれ、同年10月には家康が秀吉に臣従し、北条攻めについても家康に委ねられる事となったため、豊臣政権としても万難を排してまで重家を生かす理由は消失したようである。
そして天正15年(1587年)夏、上杉方は決着をつけるべく1万余の大軍で新発田方の本拠・新発田城の包囲戦を開始。蘆名氏からも金上盛備率いる援軍が派遣されるも藤田信吉隊に阻まれ撤退、9月下旬には越後と蘆名領を繋ぐ要衝の赤谷城も陥落し、水陸双方の補給を断たれた新発田城は孤立を迎えた。一方で上杉方からは、景勝の要請により尊朝法親王が再度の和睦を勧告するも、この最後の交渉も決裂に終わった。
この時既に秀吉より、来春までの落着を厳命されていた景勝は、10月に入りまず藤田信吉隊を五十公野信宗の籠る五十公野城の攻略に当たらせ、信宗を討ちこれを落城させると新発田城への包囲をさらに厳重なものとした。ここに進退窮まった重家は、10月25日(1587年11月25日)に最期の宴を催した後、息子の治時らと共に城外に打って出て上杉方の色部長真隊と合戦に及び、奮戦の末に「親戚の誼をもって、我が首を与えるぞ。誰かある。首をとれ」と叫んだ後自刃して果てた。享年41。
かなり時代が下ってから成立した文献につき信憑性にも疑問が持たれるものの、17世紀末に刊行された軍記『管窺武鑑』には、その最期の戦いに際して重家と藤田能登守(信吉)との間での死闘があったとの記述が残されている。
重家の死後、その亡骸は義弟・色部長真によって、当時の色部氏の菩提寺であった長松寺に埋葬され、長真の親族らと合わせて懇ろな供養が行われた。その後慶長年間に入って溝口秀勝(旧・丹羽氏家臣)が新発田藩に入封すると、秀勝の命により新たに福勝寺(現・新潟県新発田市)が菩提寺と定められると共に墓所と堂も建てられ、以降も数百年に亘って溝口家によって丁重な弔いが続けられた。
また、長真は重家の実弟である新発田盛喜や、反乱を生き残った重家の遺臣らも召し抱えており、盛喜の子孫である新保氏は米沢藩士として後年まで存続する事となる。