概要
生年:不詳
没年:天正9年9月9日(1581年10月6日)
上杉謙信・上杉景勝と、二代に亘って長尾上杉氏に仕えた越後の有力国人。山東郡与板城主。
元は上野を本拠とし、関東管領家である山内上杉氏に仕えていた総社長尾家の出であるが、父親については諸説あり、同家第6代当主の長尾顕方の九男、もしくは第8代当主の長尾景秀の次男であったとも伝わる。
明確な時期こそ不明だが、上杉氏重臣・直江景綱の娘・船と結婚し、婿養子となって「直江与兵衛尉信綱」と名乗る。天正5年(1577年)に景綱が逝去した後は、直江氏の名跡と奉行職を継ぎ馬廻として引き続き上杉謙信に仕えた。
天正6年(1578年)、謙信の急死に端を発した上杉家中の内乱(御館の乱)に際しては、乱の当事者の一方である上杉景勝への支持を表明し、景勝や甘粕景持らと共に春日山城に籠る一方、本拠地の与板城に残る直江一族や配下の与板衆も動員、周辺の上杉景虎派の討伐を進めた。この功績により内乱終息後、当主としての地位を確立した景勝のもとで重用されたが、天正9年(1581年)9月9日に春日山城内にて不慮の死を遂げる。
これは同年4月に急死した河田長親の遺領を巡る諍いから、長親の与力で以前から御館の乱の論功行賞に不満を抱いていた毛利秀広が、景勝側近の山崎秀仙(専柳斎)がその原因であると見做し襲撃に及んだ事によるものであった。この時秀仙らと会談中だった信綱も巻き添えを食い、身を守ろうと脇差を抜いて秀広に斬りかかったが、抵抗空しく返り討ちにあったという。信綱を手に掛けた秀広もまた、偶然居合わせた岩井信能らに討ち取られている。
信綱の横死に伴い、直江の名跡が途絶える事を惜しんだ景勝の命により、未亡人となった船が景勝腹心の上田衆・樋口兼続(一説には母が直江景綱の妹であると伝わる)に妻合わせられ、婿養子となった兼続が直江氏の家督と与板城を相続した。
またこの時、信綱と船の間には養子がいたが、兼続を婿として迎えるのと前後して出家させたとされ、この子息は後に清融阿闍梨として高野山龍光院の第36世住職を務めた。