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宇佐美定満

うさみさだみつ

戦国時代の武将。越後・琵琶島(「枇杷島」とも書く)城主。上杉謙信の軍師として有名(1489年(延徳元年)〜1564年8月11日(永禄7年7月5日))。
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概要編集

上杉四天王の一人であり、上杉二十五将越後十七将にも数えられている。

元々は父と共に越後守護である越後上杉家に仕え、勢力を強めていた守護代長尾為景(謙信の父)と戦った。父が戦死した後は、越後上杉家の分家である上条上杉家に仕えて引き続き為景と戦うが、1536年(天文5年)に敗れて降伏した。為景の死後はその嫡男の晴景に仕え、晴景が治世に失敗して弟の景虎が台頭するとそちらに仕えた。景虎に対して反抗した長尾政景を屈服させるのに功があったという。

元号が永禄に入る頃(1558年頃)には老齢を理由に隠棲した。最期は1564年(永禄7年)に、政景との船遊び中に溺死。彼の死後宇佐美家は没落し、本拠であった琵琶島城も廃城となった。一説にはこの死は定満が災いの種となる可能性のある政景を除くため、我が身を差し出した結果であるという。また、宇佐美家が厳罰を受けたのは、この騒動で政景の一門が反抗しないためであったという。享年76歳。

この騒動があってか謙信の跡を継いだ政景の息子の上杉景勝会津へ転封され越後時代の家臣が拝謁した時に宇佐美家だけは許されなかったらしい。


戦国大戦において編集

上杉家所属の武将として参戦。レアリティは最上位のSR(スーパーレア)。

上杉家武将の中では最高の統率力10と特技・伏兵により強い存在感を放つ。

計略「散華の陣」は陣形計略の中でも特に高い武力上昇値を誇るが、計略使用中に自分が撤退すると効果を受けている味方も全員道連れにしてしまう極めてハイリスク・ハイリターンなもの。


また、計略発動中は宇佐美自身の武力が半分ほど下がる為、味方が如何に彼をカバーして戦うのかが問われる。


群雄伝では上杉謙信の軍師として多くの出番に恵まれ、

謙信を親身に支えたり、武田家の参謀格である山本勘助真田幸隆らと知略を競う。


実像編集

謙信の軍師として有名であり、武田家の甲州流軍学に対抗した越後流軍学の祖であるとされる。軍学書『北越軍談』にも彼の事績が多く語られている。しかし、実は彼が軍師であったという事実は後世の創作である可能性が高い。そもそも定満と軍学が結びついた原因は、紀州藩に仕えた軍学者宇佐美勝興とその子定祐が、己の名声を高めるために当時流行していた甲州流軍学に対する越後流軍学を唱え、自分達の先祖として『越後流軍学の祖・宇佐美駿河守定行』という架空の人物をでっち上げたためである。『北越軍談』も著者はこの定祐というのだから眉唾物である。しかしこの定行の名は広く知れ渡るようになり、そのモデルとされる定満と混同されながら『軍師・宇佐美定満』が出来上がっていったとされる。


ちなみに、上杉謙信を主人公とした海音寺潮五郎の小説「天と地と」にも宇佐美定行の名前で登場している。


実際の定満は謙信の近臣に宛てて『自分が情けないせいで家臣が言うことを聞いてくれない』、『知行を一カ所も渡されていない』といった内容の手紙を送っており、ヘタレな部分があったようだ。当然軍学とも無縁だったと思われる。

とは言え、上杉家臣団を知る上で重要な資料である『諸国衆御太刀乃次第写』では序列十五位『びわ嶋殿』としてその名が見えるため、功績がオーバーに伝わっているにしろ、重臣であったのは間違いないようだ。


関連項目編集

上杉謙信 長尾政景 上杉景勝

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