概要
1901(明治34)年、鹿児島県伊佐市(現)出身。本名は末冨東作(すえとみ・とうさく)。
國學院大學高等師範部(教員養成課程)卒業後、中学の国語教師をしながら小説を書き始める。
1936年に第3回直木賞を受賞。
代表作は『天と地と』、『平将門』『海と風と虹と』(この2作が1976年大河ドラマ『風と雲と虹と』原作)、『武将列伝』『悪人列伝』(この2シリーズで古代から明治時代まで日本史における100~200名の人物伝を書くのが海音寺の目標だったが、結局書かれたのは57名)など。
1977(昭和52)年死去、享年76。
作風その他
日本における歴史文学の巨匠のひとり。特に『列伝』シリーズでは豊富な文献検証知識と、「ぼくはこう思う」「ぼくの考えはこうだ」などの言い回しで始まる「海音寺史観」ともいうべき定説にとらわれない独自考察が特徴。
ただそこは薩摩出身者らしく、この人物についての評価はやはり贔屓が入りすぎてほぼ賛辞賛美に終始していた(本人もその思い入れの強さについては認めている)。西郷研究をライフワークととらえていたのか手を変え品を変え幾度もその人物論伝作品に取り組んでいるが毎回過剰に熱が入りすぎて筆が記述氾濫し、結局そのほとんどが「枚数の都合」で後半(=特に「賊将」視された西南戦争以降)を端折ったり、中絶未完に終わったりしている。
後輩にあたる司馬遼太郎のことは高く買っていた(司馬文学にも海音寺の影響が濃い)が、同じ歴史作家でも池波正太郎のことは毛嫌いしていた。
「海音寺潮五郎」のペンネームについては「筆名をつける必要に迫られあれこれ考えているうちに寝てしまい、その夢の中に出てきたもの(要約)」。上田敏の訳詩集『海潮音』や江戸時代の浄瑠璃作家紀海音のことが深層心理の中にあったかも、としている。
戦時中は陸軍報道班員としてマレー方面へ派遣させられている。同じ船では井伏鱒二や小栗虫太郎らが同道していた。