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長尾為景

ながおためかげ

長尾為景とは長尾晴景と上杉謙信の父で越後守護代を務めた。(1489年-1543年)
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顕定・房能兄弟を討つ

1489年、長尾能景の嫡男として誕生。飯沼正清の妻となった姉と妹3人、弟に長尾為重がいる。(為重に関しては記載されない場合もある。)

1506年、父の能景が一揆勢との戦いで戦死したので家督を継いだ。しかし彼は父の援軍に出さなかった主君・上杉房能や一揆勢に寝返った神保慶宗に復讐を画策した。
そして為景は房能の養子である上杉定実を新当主として擁立する事を決意し、1507年に房能の居城を襲撃して房能を討った。更には定実を傀儡の当主に仕立て上げたのである。

しかし1509年、房能の兄である上杉顕定が越後に襲来すると定実と共に佐渡国に逃亡するも、顕定の治世が失敗して国人衆の反発を受けると翌年に佐渡の軍勢を率いて反撃を行い、撤退を行う顕定軍に猛攻をかけ、更に援軍にやってきた叔父の高梨政盛の協力もあって顕定を討ち滅ぼしたのである。

定実との対立と父の敵を討つ

1513年、定実が傀儡であることに不満を抱くと対立。定実方には宇佐美房忠・定満親子や弟の上条定憲等が加わった。

為景はこれを迎撃し、最終的に定実を幽閉に追いやる事に成功した。更に1520年には父の能景を見捨てた神保慶宗と椎名慶胤を新庄の戦いで滅ぼしたのであった。

翌年、為景は無碍光衆(一向宗)禁止令を出し、一向宗を信仰することを禁止した。また朝廷や室町幕府に謁見などを行い、信濃守となったほか、幕府より守護や御供衆の格式である白傘袋・毛氈鞍覆・塗輿を授与された。

強制隠居に追い込まれる

1530年頃から為景は定憲と対立を深める。そして大熊政秀を言いがかりにつける等など定憲は暗躍するが、幕府の支援を受けていた為景には及ばず敗北した。

しかし1531年、大物崩れ発生後に2人の対立は再び始まったのである。定憲は上田長尾氏や揚北衆など国内勢力に加えて蘆名氏や砂越氏といった国外の勢力も味方につけることに成功し、為景方への攻勢を強めた。

為景は内乱に苦闘するが、奮闘の末に1536年、三分一ヶ原合戦で定憲を破って勝利を収めた。だが、反乱は収まる事は無いままだった。

8月、為景は息子・長尾晴景に家督を譲る事を強要されて隠居した。しかし一説では内乱を抑える為に隠居したと伝わる。

1543年、内乱を完全に鎮圧する事も無いまま54歳で死去した。晴景の代にになっても内乱は収まる事は無かったが、為景の次男の景虎(後の上杉謙信)の代で国内の反乱は収まる事となった。

信長の野望

覇王伝PKから初登場。天翔記では1534年のシナリオ開始早々戦争を行う事が多い。革新以降は子の謙信に匹敵する武勇104。そして騎馬Sである。(ただし息子と外孫の景勝と異なり車懸りは所持していない)

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