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上杉定実

うえすぎさだざね

上杉定実とは越後上杉家第8代目当主及び最後の当主で、上条上杉家出身。(1478年?-1550年)
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越後上杉家に養子入り編集

定実自身は上条上杉家当主・上杉房実の長男で、姉に積翠院(伊達尚宗の妻で1513年に死去)弟に上条定憲、定明がいる。


1503年に越後上杉家当主・上杉房能の娘を正室に迎えて、その婿となる。その4年後、越後上杉家に不満を持っていた越後守護代・長尾為景に当主として担ぎ出され、房能を倒して越後上杉家第8代目当主(実際は為景の傀儡)に就任した。同時に為景の妹を娶り、宇佐美房忠(定満の父)から名刀「宇佐美貞光」を献上された。


為景への反逆編集

だがまもなくして房能の実兄である山内上杉家当主・上杉顕定の侵攻により、1509年に越中・佐渡へ逃走。翌年、越後の諸将を統制出来ない顕定軍の内情を見て、為景と共に佐渡の軍勢を加えて勢力を回復。更に長森原の戦いで顕定を滅ぼす事に成功した。


しかし1513年、自身が為景の傀儡であった事に気づくと実権回復の為に宇佐美房忠、定満父子や実弟・上条定憲、揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を奪取。何度も抵抗を行い続けるが、失敗に終わる。その結果、徐々に越後上杉家の権威は失墜する事となった。


後年には定憲が再度反為景勢力を結集して戦ったが、定憲は三分一原の戦いで戦死(生存説もある)してしまったが、代わりに為景を隠居に追い込んだ。しかしそれでもなお、実権を回復するまでには至らなかった。


天文の乱と長尾家の仲介編集

為景の隠居後、家督を継いだのは長男の晴景だった。晴景は為景と異なって求心力に欠けていたので、定実の権力は一応の回復を見せた。


定実には息子もいなかった為に、為景の没後に伊達家から時宗丸(のちの実元、成実の父)を養子に入れる事を中条藤資(藤資の妹は時宗丸の母)に命じた。これによって復権を図ろうとした矢先に越後北部や出羽での上杉傘下の国人領主同士の対立を招き、更に伊達家でも時宗丸の父・稙宗と時宗丸の実兄・晴宗が対立して天文の乱(洞の乱)が起こった。


結局、乱が晴宗方の勝利に終わったと同時に越後でも入嗣反対派が抗争に勝利。定実のもくろみは頓挫した。その一方で越後にて黒田秀忠の2度の反乱が起こった際に、晴景の弟である景虎がこれを破った事で、定実も景虎に一目置く事になった。


1548年、長尾家中で晴景と景虎の争いが起こるとこれを仲介し、景虎の擁立に尽力。晩年は出家して玄清と名乗って、1550年3月14日に死去した。


定実の死を以って越後上杉家は断絶となったが、足利義輝の命令で景虎が守護を代行した。


各メディアにおける上杉定実編集

戦国大戦

Ver.2.2により、上杉家で参戦。コモンながら鉄砲隊で武5/統6と安定した戦いが可能。計略は「越後守護の反抗」で撤退した上杉家の味方の武将コストの合計値が高いほど武力が強化されるが、反面復活までの時間が延長してしまうという物。


信長の野望

初登場はイベントのみだが、武将としての初登場は嵐世記より。嵐世記では生年が上杉朝興と同じだったり、続編の蒼天録では1453年になっていた。(天道からは1478年)

関連タグ編集

上杉房能 長尾為景

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