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上杉朝定

うえすぎともさだ

上杉朝定とは、関東地方の戦国武将。扇谷上杉氏最後の当主として新興勢力の後北条氏と対抗するも、河越夜戦にて奇襲に遭い討死を遂げた。(1525年-1546年)
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概要

本記事では戦国武将、並びに扇谷上杉氏の当主としての上杉朝定を取り扱うが、同名の人物は他にも2名存在しており、こちらについても簡潔に触れておくものとする。


  • 上杉朝定(二橋上杉氏当主、1321年-1352年):鎌倉時代末期~室町時代初期に活躍した武将で、丹後国守護や内談方の初代頭人、足利尊氏の執事などを歴任。観応の擾乱では足利直義の側に従った。また養子で従甥の上杉顕定は、後に扇谷上杉氏の祖となっている。
  • 上杉朝定(山本寺上杉氏当主、1418年-没年不明):室町時代前半に越後国守護を務めた上杉朝方の子。後に越後上杉氏より分家して山本寺上杉氏を創立したとされるが、その事績については定かでない部分も多い。他の二名と異なり、扇谷上杉氏と直接の関係はない。

生涯

家督相続と逆風

大永5年(1525年)、扇谷上杉氏の9代目当主・上杉朝興の嫡男として生を受ける。幼名は五郎。朝定が生まれる以前、朝興はその養父・朝良(8代目当主)から、実子の藤王丸が成長した折には次期当主の座を譲るよう遺言されており、本来であれば朝定が当主の座に就くはずではなかったのだが、その藤王丸は天文元年(1533年)に朝興もしくは後北条氏によって殺害され、ここに扇谷上杉氏の後継者としての朝定の地位も固まる事となった。

さてこの頃の扇谷上杉氏は、新興勢力である後北条氏の台頭に伴い、同じ関東管領の流れを汲む山内上杉氏と共にその勢力圏を蚕食されつつあった。朝定が生まれる前年の大永4年(1524年)にも、太田資頼(資正の父)の従兄弟である太田資高(康資の父)が突如北条氏綱に寝返った挙句、扇谷上杉氏が居城としていた江戸城を奪っている。この一件には、祖父・太田道灌が主家である扇谷上杉氏に謀殺された事への恨みが関係しているとも推測されている。


こうした状況の中、天文6年(1537年)に父・朝興は江戸城奪還を果たす事無く50歳で死去。これを受けて朝定は13歳で家督を継ぐ事となる。ところが家督を継いで早々、これを好機と見た北条氏綱が河越城攻略に着手。この時朝定も後北条氏への備えとして、武蔵国の深大寺付近に深大寺城を築いていたが、氏綱はこれを迂回して直接河越城へ攻撃を仕掛けたため、折角築いた防備も意味をなさないまま朝定は敗走を余儀なくされた。これ以降、朝定は家臣の難波田憲重の居城である松山城を本拠地と定めている。


河越夜戦

無論、朝定も敗れたままでいる訳も無く、以降も後北条氏への反攻の機会を窺い続けるが、河越落城の翌年には葛西城までも奪われるなど、扇谷上杉氏に極めて不利な情勢は依然変わる事はなかった。そんな中、天文10年(1541年)に入ると山内上杉氏当主・上杉憲政の呼びかけにより、古河公方足利氏当主・足利晴氏や常陸の小田氏治、さらに駿河・遠江の今川義元と同盟、後北条氏に対する大包囲網の一翼を担う事となる。

それまで扇谷・山内の両上杉氏は、長享元年(1487年)に始まった内紛(長享の乱)以降長らく対立関係にあったが、後北条氏という難敵を前にしておよそ半世紀ぶりに、和睦を果たす格好となったのである。


対する後北条氏はこの頃当主・氏綱が病死し、嫡男の氏康がその後を継いでいたが、家督継承直後に今川氏や武田氏と戦端を開いており(第二次河東一乱)、西と北から挟撃を受けるという危機的状況に陥っていた。

その氏康が駿河方面に在陣している隙を突き、天文14年(1545年)に両上杉氏と古河公方を中心とした8万もの大連合軍が河越城を包囲。しかしこの時河越城の守備に当たっていた氏康の義弟・北条綱成は半年余りもの籠城戦を巧みに凌ぎ切り、包囲戦は長期戦の様相を呈していく事となる。

その間、氏康は武田晴信の仲介の元、今川義元と和睦を結び停戦。これにより後顧の憂いを断った氏康は、8000の軍勢を率いて河越城救援に向かった。河越城の守備兵3000を合わせてもなお、数の上では連合軍の側が圧倒的優位であったが、包囲戦の長期化は攻め手の士気の低下や軍律の弛緩を招いており、さらに氏康による偽装降伏の申し出もこの状況に拍車をかける格好となった。


そして翌天文15年4月20日(1546年5月19日)の晩、氏康自ら率いる後北条軍は夜襲を結構、両上杉氏の陣に攻めかかった。この夜襲(河越夜戦)により両陣営とも大混乱を起こして崩壊、朝定もその最中に討ち死にしたと伝わる。享年22。

但し朝定が亡くなった際のはっきりした記録は残されておらず、この事から朝定の死因は病死で、また後北条軍の夜襲ではなくこの急な陣没こそが、連合軍崩壊の直接の原因ではないかと見る向きも存在する。また主君を居城・松山城に迎えた難波田憲重もまた、この混乱の最中に古井戸に落ちて敢え無い最期を遂げた(もしくは自ら主君の後を追って井戸に身を投げた)とされる。


その後の扇谷上杉氏

朝定の死により、戦国大名としての扇谷上杉氏は事実上の滅亡を迎えた。その後永禄2年(1559年)に扇谷上杉氏旧臣・太田資正により、庶流筋の上杉憲勝(七沢七郎、一説によれば朝定の弟)が当主として擁立され、後北条氏より奪還せしめた松山城に入城した事で扇谷上杉氏も一時的な再興を見る事となるが、それも長くは続かず後北条・武田連合軍に敗れて降伏。時に永禄4年(1561年)の事であり、この時関東に出兵していた上杉政虎(謙信)は憲勝降伏の報せを聞くや、人質として預かっていた憲勝の子を処刑している。

憲勝が後北条氏に降伏した後の動向は定かでなく、家祖の上杉顕定から数えて11代、200年近くに亘って関東に勢力を有した名家も歴史に埋没する事となったが、扇谷上杉氏の血脈自体は6代目当主・氏定の娘の嫁ぎ先である今川氏や、これと姻戚関係にあった江戸期の高家旗本・吉良氏にも残されており、後に吉良義央の実子である綱憲の養子入りにより、山内上杉氏の名跡を継いでいた米沢上杉氏にもこの血脈が引き継がれる事となった。


扇谷上杉氏傘下の大名のうち、大石定久・成田長泰・上田朝直・藤田康邦は河越夜戦を経て後北条氏に降伏。このうち成田長泰は一時上杉政虎に鞍替えしていた時期もあったが、やがて政虎と対立の末再び後北条氏に帰参している。

太田資正は河越夜戦の後も後北条氏への抵抗を続けており、一旦は上記の4人と同様に服属を余儀なくされた時期もあったが、やはり主家を滅ぼした後北条氏への恨みは捨てきれなかったのか、前述の上杉政虎の関東征伐の折にこれと通じて離反。これ以後、天正18年(1590年)の小田原征伐に至るまで一貫して、後北条氏への反抗姿勢を貫き通した。


各メディアにおける上杉朝定

信長の野望シリーズ

覇王伝PK版から初登場。当初は上杉では無く扇谷家(父も扇谷姓)の為、扇谷朝定名義で登場していた。(次作の天翔記や嵐世記-蒼天録、天道・創造PKでは上杉姓で登場。)その後、烈風伝にて再登場した時のみ、扇谷上杉姓名義で登場している。


天道にて再登場。天道では河越夜戦のイベントが追加されており、選択次第では生き延びらせる事は可能。死亡した場合は太田資正が当主を継ぐ事になる。


戦国無双

武器:刀剣 声:宮坂俊蔵(3)


「関東の覇権・・・取り戻すことはかなわなんだか・・・」(3の撃破時台詞・一部省略)


北条氏康のシナリオである「河越夜戦」で総大将として登場。彼を倒すと上記の台詞を呟く。戦国無双3Empでも登場するが、こちらは上記のセリフは呟かない。プレイヤーとして使った場合はスピード型の成長をする。


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河越夜戦 上杉家

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