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河越夜戦

かわごえよいくさ

河越夜戦とは1546年に起こった合戦で河越城の戦いとも呼ばれる。北条軍と上杉連合軍が争ったが、最終的に北条軍の勝利に終わった。
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概要

関東地方の覇権を巡り、古河公方と関東管領・山内上杉家と相模、武蔵を地盤に力をつけた庶家の一つ扇谷上杉家が長年争い続けていた。その間を狙って相模にて北条早雲が台頭。その結果、扇谷上杉家の勢力は削られる様になった。

早雲の死後、家督を継いだ氏綱も古河公方、関東管領双方が内紛で混乱する中、武蔵に進出し、江戸城を陥落。更に1537年に扇谷上杉家当主・上杉朝興の後を継いだ子・朝定の居城・河越城を落とし、扇谷上杉家を滅亡寸前まで追いつめた。

1541年に氏綱が没し、家督を継いだ北条氏康は継承早々に一大危機を迎える。1545年、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻する。

一方氏康の妹婿で親北条派だった足利晴氏は、上杉憲政に唆されて北条に反旗を翻して兵を動員、山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉家も和睦し、三家は同盟しつつも関東の全大名に北条を攻める様に指令を出した。(この内、親北条派だった千葉利胤のみ連合軍に加勢しなかった)これにより、全員が武蔵・河越城を包囲した。

氏康は駿河に出陣するものの武田氏までもが出陣してきたために状況は不利であり、更に連合軍よって河越城が包囲されたという状況が知らされる。武田晴信の斡旋で義元に譲歩する事で和睦した。西方の動乱を収束させた氏康は関東方面に撤退し、連合軍に挑む事になった。

戦いの経歴

1545年、連合軍は河越城を包囲した。しかし河越城主は北条綱成であった為に連合軍はなかなか落城させる事が出来なかった。その間に氏康は本国から約8000の兵を率いて救援に向かった。またこの間に氏康は太田資顕(太田資正の兄)を調略、河越城への道を確保した。食糧を十分に蓄え籠城した綱成は半年も耐え抜いた。

この結果、連合軍は膠着状態になった為に長陣に飽きて軍律は弛緩していた。とそこに、氏康からの書状が贈られた。まず晴氏に対しては「河越城の兵士達の命を助けてくれるなら城を明け渡そう」と申し入れ、上杉には常陸の小田政治の家臣に通じて「綱成を助命してくれるならばこれまでの事を忘れて我々は公方家に下る」と申し入れた。

連合軍はこの書状を無視して北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに退却した。これにより連合は北条軍の戦意は低いと判断し、自軍の兵士が多いという事もあって戦勝気分に湧いた。

しかし1546年の夜、氏康は自軍8000を4つに分散し、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして残り三隊を率いて敵陣に向かい、兵士達の鎧兜を脱がせて身軽にさせた。

そして隙を見て連合軍本陣を奇襲、戦勝気分に乗っていた連合軍はたちまち大混乱に陥って敗走。戦いは北条軍の勝利に終わった。

戦いの結果

この戦いで扇谷上杉家当主・上杉朝定や難波田憲重が討死し、当主を失った扇谷上杉家は滅亡した。上杉憲政は辛くも撤退に成功するが、山内上杉家の勢力は更に衰退する事となった。しかも村上義清と結んだ事で武田家を敵に回す事となった。

また扇谷上杉家と同じく武蔵に領地を構えていた深谷上杉家も北条家に勝ち目が無いと悟ったのか、当主・憲賢は降伏した。

同じく敗走した足利晴氏もこの直後に御所を包囲され降伏、隠居し、長男であった藤氏ではなく、北条家出身の母を持つ次男の義氏に家督を譲る事を強制された挙句、自身は北条家に幽閉される羽目となった。また最盛期を築いていた小田家はこの戦いを機に勢力が衰退し、当主の政治はこの戦いから2年後に死去する。

一方、河越夜戦で勝利した北条家は関東南西部勢力を拡大。甲相駿三国同盟の締結により駿河今川家や甲斐武田家との対立を終わらせると関東制覇を目指して越後の長尾家や常陸の佐竹家や安房の里見家との抗争に明け暮れる事となった。

創作物における河越夜戦

大河ドラマ
2007年に放送された『風林火山』の第23話にて題材となっている。

信長の野望では天道よりイベントが実装されており、北条方でプレイした場合は扇谷上杉家と山内上杉家が滅亡して代わりに長野家と太田家が登場する。反対にプレイヤーが連合軍(古河公方足利家・山内上杉家・扇谷上杉家をプレイヤーとして使った場合)の場合は撤退するIFイベントもある。

戦国無双では3とchronicleのみに実装されており、特に3の場合、北条氏康の章か戦国伝でしかプレイ出来ない(模擬演武には無い)ステージとなっている。

関連タグ

北条氏康 上杉憲政

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