生涯
関東内乱を制す
大永3年(1523年)、関東の名門である山内上杉氏当主・上杉憲房が56歳の時に誕生。しかし翌々年に父が59歳で死去すると、憲政はまだ3歳であったために家督継承が出来ず、古河公方家より養嗣子に迎えられていた足利晴直が、上杉憲寛と名乗って関東管領の座に就いた。
とはいえ山内上杉氏の家督を巡って、家中では対立が生じつつあり、白井長尾家当主・景誠が配下に暗殺されたり、憲寛は配下の安中氏を攻撃するなど騒乱が巻き起ころうとしていた。そして享禄2年(1529年)秋、憲政は成田氏や小幡氏などといった勢力に擁立される形で憲寛と対決する事となり、およそ2年に亘る抗争を制した憲政が山内上杉氏第15代当主、そして関東管領の座を継ぐ事となった。
一方、同時期には憲寛の実家である古河公方家でも、当主・高基と嫡男・晴氏(晴直の兄)との間で同様に対立が勃発し、さらに関東制覇を狙う小弓公方・足利義明(高基の弟)も加え高基・晴氏・義明の三者が互いに対立する構図になった。前出の成田氏がこの時、間接的ながら、晴氏側にも付いていたと考えられている。後世「関東享禄の内乱」と呼ばれるこの2つの内乱は、未だその全容が明らかでない部分も多いものの、この成田氏の立ち位置などから相互に何らかの関係があったと考える向きもある。
ともあれ家督を継いだ憲政であったが、この頃の山内上杉氏は台頭著しい伊豆・相模の後北条氏の圧迫を受けており、憲政をとりまく状況は決して良好なものではなかった。後北条氏との間で武蔵を巡っての抗争が続く一方、天文10年(1541年)に村上義清・諏訪頼重・武田信虎の連合軍に敗れた信濃の豪族・海野棟綱や真田幸隆が憲政の元へ逃れてくると、憲政は家臣の長野業正に命じて兵を海野平へ派遣している。
しかしこの時関東管領軍は諏訪の軍勢との武力衝突を避け、頼重と単独で講和を結んで信濃より撤兵。海野一族の本領回復という目的は果たせず終いに終わっている。このような形での手打ちとなった理由として、諏訪方の士気の高さから形勢不利と見て取ったという意見もある一方、傘下の大名同士の内紛や後北条氏の北進などで足元に不安を感じた事も背景にある、という指摘もある。
河越夜戦~上野退去
後北条氏対策のため、憲政は周辺諸勢力との協力でこれを打倒しようと画策する。長らく対立関係にあった扇谷上杉氏の当主・上杉朝定のみならず、古河公方の足利晴氏や駿河の今川義元をも抱き込み、さらに関東の諸大名(なお千葉氏のみ加勢せず)を糾合すると、天文14年(1545年)に北条氏康が駿河方面で戦端を開いた隙を突き、大軍をもって後北条方の河越城を包囲したのである。
憲政を中心とした連合軍と、今川軍との間でまんまと挟み撃ちにされる格好となり、危機的な状況に陥った氏康であったが、河越城の守備を任されていた北条綱成は半年もの間籠城戦を持ちこたえ、その間に武田晴信(信玄)の仲介で義元と和睦を結んだ事で、この状況にも大きな変化が訪れる。
関東へ取って返した氏康は、連合軍に降伏を申し出るなどの工作で連合軍の油断を誘い、機を見計らったところで綱成との協力の元夜襲を敢行する。兵力差から来る慢心と、長期に亘る包囲戦で連合軍側が大いに弛んでいた事もあり、連合軍はこの夜襲で1万以上もの損害を出し呆気なく大敗。憲政も上野の平井城への退却を余儀なくされた。これが世にいう河越夜戦である。
後北条氏に敗北を喫したものの、それでもなお平井城を中心に上野での勢力を保持していた憲政は、北信濃の村上義清とも組んで劣勢を挽回しようとするが、天文16年(1547年)に村上氏と対立する武田晴信との戦いでこれまた大敗を喫してしまう(小田井原の戦い)。これをきっかけに前出の成田氏を始め、長年山内上杉氏に属してきた家臣団も、憲政を見限って後北条方へ寝返っていく。
そして天文21年(1552年)には武蔵国内の最後の拠点であった御嶽城も陥落し、安中氏や長野氏など西上野の関東管領方も、相次いで後北条氏への服属姿勢を示した。これを受けて憲政も平井城から退去、その後は北上野で抵抗を続けるも劣勢は覆しようもなく、当時常陸で勢力を伸長しつつあった佐竹義昭に、上杉の家名と関東管領の座を引き換えに保護を求めた。
しかし義昭は関東管領職はともかく、源義光の末裔たる佐竹氏の誇りから家名継承には難色を示し、結局保護の交渉は頓挫。結局家臣の助言の元、長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後へ逃れていく事となる。なお平井城(もしくは御嶽城)陥落の折、城に留まった嫡男・龍若丸が家臣の裏切りにより後北条氏の手に落ちており、程なく処刑されたと伝わっている。
関東管領職譲渡~皮肉な最期
越後に逃れた後、憲政は景虎を養子としその庇護下に入った。その後永禄3年(1560年)に安房の里見義堯より景虎の元に要請が入ると、憲政は景虎に奉じられて関東へ進攻した。憲政の帰還に呼応し、沼田氏や白井長尾氏・総社長尾氏、そして箕輪の長野業正も馳せ参じている(ただし金井氏や赤井氏などは反抗したため、後に謙信の手で滅ぼされている)。
その後の小田原城包囲戦の最中、永禄4年(1561年)には鎌倉の鶴岡八幡宮にて、景虎に上杉の名跡と自身の1字を与えて上杉政虎と名乗らせ、山内上杉氏の正式な後継者とした。この時に関東管領職も譲渡されたと伝わるが、これについては政虎を養子とした時点で譲っていたのではないかという見解もある。ともあれこれを機に憲政は出家し、光徹と号し関東経営からは退く事となった。ところが…
それから15年以上が経った天正6年(1578年)、謙信の死去から程なくして上杉家中では家督争いが勃発する(御館の乱)。憲政本人は当初中立を保っていたが、旧山内上杉氏の家臣の中には後北条氏との関係を重視する意見もあった事から、後北条氏出身で乱の当事者の一人・上杉景虎を支持する立場に回る。とはいえ倉賀野尚行らのように、もう一方の側である上杉景勝に与した者もおり、旧臣達も決して一枚岩と言える状態でなかったようである。
一方憲政の景虎支持について、近年の研究結果から次のような見方も示されている。乱の勃発する直前、上杉領侵攻を目論む会津の蘆名盛氏・盛隆への備えを巡って、景勝と上杉氏重臣・神余親綱との間で対立が発生、この時憲政も仲介に当たったという。しかし両者とも譲らず交渉は難航し、これによって景勝に面子を潰される格好となった憲政が、「敵の敵は味方」的な形で景虎方に与したというものである。
御館の乱の最中、謙信が晩年に和睦していた武田勝頼が景勝と景虎の仲介役を担い、景勝と景虎は和睦。しかしそれは長続きせず、景虎は憲政の居館である「御館」に籠り防戦を続けるも、形勢不利は最早火を見るより明らかであった。事ここに至り、憲政は息子・憲重と共に和睦を成立させるべく、景虎の息子である道満丸を伴って春日山城へ赴いた。
ところがその途上で、憲政は景勝方の手の者に襲撃され、憲重や道満丸共々殺害の憂き目に遭った。時に天正7年3月18日(1579年4月13日)、生涯に亘って後北条氏と敵対しながらも、その後北条氏の子に加担の上で命を落とすという、何とも皮肉な形で56年の生涯に幕を下ろしたのである。
憲政の没後の上杉家
憲政の没後、景虎は自害。ここに、御館の乱は上杉景勝の勝利で終結した。
その後、上杉景勝は武田家との間に甲越同盟を締結することで織田信長による脅威に対抗する。
しかし織田軍は武田家を滅ぼし、その勢いで上杉家をも滅ぼそうとした。
景勝は窮地に陥ったが、信長が横死したことにより窮地を脱した。
人物
後北条氏との抗争で武蔵や上野を始めとする勢力圏や関東管領としての権威を失い、また前述したような皮肉な最期などもあり、後世における憲政の評価はお世辞にも高いものとは言えないのが実情である。事実、軍学書『甲陽軍鑑』においても、「大勢力を率いながらも家を滅ぼしてしまった。北条氏康に一度も勝てなかったのは、北条を軽輩と見下し配下に任せ、自身は出陣しなかった為」と散々に評されてしまっている。
とはいえ、山内上杉氏は憲政が生まれる前からすでに凋落が始まっており後北条氏に対する劣勢ぶりは何も憲政の代に始まった事ではない。加えて父の死に伴うゴタゴタに幼くしての家督継承や、内紛による家中の混乱などもあった事を考えれば、憲政一人の実力だけではどうにもならなかった面も多分にあったのもまた事実ではある。なまじ関東管領家という名門中の名門に生まれたが故に、新興勢力の代表格たる後北条氏との対比で、これに打倒される旧勢力の代表格として見做されがちな辺りも、憲政にとっては不幸と言えるのかも知れない。
そもそも憲政について言及されている史料は決して多い訳ではなく、また前出の『甲陽軍鑑』も含めて憲政と相対した側の立場から記されたものばかりである事もあり、今なおその実像が完全には解明されていると言い難いのも事実であろう。
各メディアにおける上杉憲政
信長の野望シリーズ
戦国群雄伝より初登場。シリーズ初期はそこそこ使える程度の武将であったが、現在は教養などのステータスが廃止されたために最下位争いのステータスとなっている。それでも家臣に長野業正や上泉信綱などがいるのでクリアは難しくはないとはいえ、長野業正の寿命が長くはないので長尾家、武田家、北条家とどう向き合うかがポイントとなる。
また一部の作品では河越夜戦のイベントもあり、作品にもよるが選択肢によっては憲政自身が行方不明となり、自動的に長野業正が当主を継ぐことになるのでこちらも注意が必要だ。
戦国無双
武器:槍(3)刀剣(4) 声:山田真一(3) 宮坂俊蔵(4)
「お、おのれ北条…我らを謀りおったのか!」(3:河越夜戦)
「な…!謙信殿、城を取らぬのか?」(同:関東出兵)
「な、ならば…関東管領の職を、謙信殿に譲ろう。それで大義は立つはず。頼む、受けてくれ」(3Empries:関東管領就任)
「謙信公がいれば無敵!我らも勢いに乗って攻めようぞ!」(4:関東出兵)
「いかん、調子に乗りすぎた!やはり北条めは一筋縄ではいかんか…」(同上)
3から初登場。河越夜戦にて足利晴氏や上杉朝定と連合して北条家を倒そうとするが、氏康の策に嵌って倒される。その後に謙信に奉じられて再度関東を攻撃したが、謙信が城を取らずに退却するとそれに驚いていた。
3Empriesでは謙信が北条家を滅ぼすと武田や今川に攻められる恐れがあると考えて、謙信に統治して欲しいと悲嘆するが、大義無しという理由で一度は断られる。しかし関東管領の座を譲るという覚悟を見せた事で謙信がそれに応えたために安堵した。
4では猪突モブの見た目で声が知将モブという特殊な扱いで登場。4Empriesでは3には無かった創世演武があるため、山内上杉家を再現可能。
戦極姫
名門であることを鼻に掛けているが本人の能力は低め。家臣が優秀なだけである。