概要
第一次甲越和与
かつて、武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで5回争った。しかし永禄12年(1569年)に、信玄は駿河侵攻によって対立していた北条氏康・氏政による脅威を退けるべく対北条戦に集中しなければならなかった。一方、謙信も越中一向一揆に苦戦していたため、武田と上杉は共に和睦することを望んだ。こうして、室町将軍・足利義昭や織田信長による仲介のもと信玄と謙信は和睦(第一次甲越和与)。武田、上杉と織田の三者は友好関係を築いた。しかし、信玄は信長による盟約違反(信長は武田と織田に両属していた遠山景任の没後、信玄に一切相談せずに息子を遠山氏を景任の養子にし、事実上遠山氏を織田の家臣とした)第二次信長包囲網の主要人物となったため、武田と織田は断交。この時点では、謙信は信長を支持したため、第一次甲越和与は自然消滅した。
第二次甲越和与
信玄の死後、謙信と信長はお互いを警戒しあって対立し、さらに両者の同盟は破綻した。そして、義昭による信長追討令を受けた謙信は第三次信長包囲網の主要人物となった。
こうして、天正3(1575)年に武田勝頼(信玄の後継者であり嫡男でもあり四男)と謙信は、織田による軍事的脅威に対抗するために足利義昭を仲介して和睦(第二次甲越和与)する。それ以降両者の関係は友好になり、毛利輝元や本願寺顕如たちも武田・上杉連合軍と連携して信長を牽制。謙信は手取川の戦いで織田軍を撃破した。
甲越同盟
謙信の他界後、武田家と上杉家の連携をさらに強化するため、天正7(1579)年に勝頼と上杉景勝(謙信の後継者であり養子でもあり甥)は同盟(甲越同盟)を締結した。
詳しくは、甲越同盟参照。