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駿河侵攻

するがしんこう

駿河侵攻とは、日本の戦役の一つ。永禄11年(1568年)から同13年(1570年)の間に行われた、武田信玄による今川領と北条領に対する侵攻を指す。
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背景編集

天文年間の末期に締結された甲相駿三国同盟は、その当事者である武田氏北条氏今川氏それぞれの後背の安全を確保し、勢力拡大の機会を生むと同時に、各領国内の経営の確立にも繋がるなど、三家ともに良好な結果をもたらすに至った。

とりわけ、三国同盟によって最も利を得た格好となったのが今川氏である。この同盟によって今川氏は、駿東方面での北条氏との長きに亘る対立関係を解消するのみならず、同時期に勢力下に収めつつあった三河への影響をさらに強め、当地を巡って争っていた尾張の織田氏に相手を絞れるようになり、さらなる勢力拡大に弾みを付けたのである。


・・・が、盤石かに思われたこの同盟にも、やがて破綻の時が訪れることとなる。

その端緒となったのが、永禄3年(1560年)に発生した桶狭間の戦いである。この戦いで尾張国内の今川勢力の救援に赴いた今川義元が、迎え撃つ織田信長の反攻によって討死するという予想外の事態は、大勢力であった今川氏の領国支配体制、ひいては三国同盟の先行きに動揺を来すことにも繋がった。

義元の跡を継いだ今川氏真は、こうした動揺を抑えるべく徳政の実施など様々な手を打ったものの、義元のみならず重臣格が大勢喪われた穴を埋め、適切な対応に及ぶのは容易なことではなかった。三河においては今川の一門衆にに準じる立場にもあった、松平元康(のちの徳川家康)の独立を契機として、今川寄りの勢力が国内から駆逐されていった上、遠江にまでも反今川の気風が飛び火し、国人たちによる大規模な反乱が勃発。これらの動きに加えて一部の家臣の寵用や、重臣の腐敗などの問題も重なったとされ、傘下の国人のみならず重臣らからの求心力までも低下させていくなど、先代の頃の強勢ぶりから一転して今川氏は衰退の一途を辿っていくこととなる。


一方でこの当時、三国同盟の一角を担っていた武田信玄は、予てからの北信濃を巡る上杉輝虎(のちの謙信)との抗争にほぼほぼケリをつけていたが、それと同時に前述した三遠方面の動揺を前に、徐々にではあるが今川領の併合と、それによる「海の出口」の確保を模索するようになっていったとされる。

実際、永禄8年(1565年)頃に信玄は、今川の当敵であるはずの織田信長と新たに同盟関係を結び、その養女を自身の四男・諏訪勝頼と娶せている(※)。さらにこれとほぼ時を同じくして、武田家中では信玄に対する謀反の企てが発覚し、嫡男の武田義信は東光寺に幽閉、その傅役で重臣の飯富虎昌らが首謀者として処断されるという事態にまで発展(義信事件)。

この事件は前述した信玄への謀反という疑い以上に、外交方針を巡っての家中での深刻な対立が根底にあったと考えられており、いずれにせよ今川氏より正室を迎えていた義信が、この事件をきっかけに廃嫡されている(二年後に病死)。この出来事が、今川・武田間に深刻なしこりを残す結果となったのは確かである。


こうした両家間の緊張状態を前に、氏真は信玄への対抗措置として北条氏康と共同で武田領に対する塩の輸出禁止を敢行、さらに上杉輝虎との間で同盟関係の構築が模索されてもいるが、対する信玄もこの頃徳川氏や北条氏に対し、今川領の分割を提案する動きを見せている。

この提案は、一時の敵対こそあれど今川と長年深い関係にあった北条からは拒否されたものの、徳川との間では今川領分割の密約(※2)が締結され、さらに今川家中の重臣や、傘下の駿河国人への調略も本格化するなど、信玄による今川領侵攻への動きもいよいよ加速していくこととなるのである。


(※1 この織田との同盟締結は特定の勢力に対抗するためのものではなく、当時勢力圏が接し抗争が起こりつつあった、東濃地域での両者間の調整の必要に迫られたことによるものであったと見られている。一方で、今川氏やそれとも親しい関係にあった義信ら武田家中の今川寄りの者たちがこうした動きを警戒し、これが義信事件へと繋がったのではないかとも考えられている)

(※2 2023年8月現在、一般的には、これは今川領のうち、大井川を境にしてその東を武田氏が、西を徳川氏が得るというものであったが、この密約の内容については『甲陽軍鑑』や『三河物語』などに拠るところが大きく、密約の実存性に疑義が呈されていることにも留意されたい。また、近年の研究では密約は「川」をどの川とは明記しておらず、信玄はそれを天竜川と、家康は大井川と認識していた可能性が浮上している。また、川を境目にした分割はあくまでも目安であり、実態は今川領の切り取り次第だった可能性が高まっている。)


第一次駿河侵攻編集

薩埵峠の戦いと駿河陥落編集

かくして永禄11年(1568年)12月、信玄は1万2000の軍勢を率い、満を持して駿河への侵攻を開始する。折しもこの年の3月には、義元亡き後孫の氏真を後見していた寿桂尼が没しており、これも武田による駿河侵攻に影響を与えたと見る向きもある。

当初は富士郡方面から駿府を目指した武田軍であったが、大宮城を守る富士信忠の頑強な抵抗にあったため進路を西に向け、内房(現・静岡県富士宮市)を経由するルートを取った。しかしこの選択は後に、武田軍にとって深刻な問題を引き起こす一因ともなった。


この武田軍の動きに対し氏真は、重臣・庵原忠胤に1万5000の兵を預け、さらに義父である北条氏康にも援軍を要請の上で、要衝の薩埵山(現・静岡県静岡市清水区)にて迎撃の構えを見せた。この薩埵山は、14世紀中頃にも足利尊氏直義間の合戦の舞台となったことで知られており、この時と同様に奇しくも源氏の末裔同士が再び薩埵山の地で相まみえる格好となったのである。

峠の守りを固めて迎撃に徹し、やがて到着するであろう北条からの援軍と武田軍を挟撃するという氏真の目論見はしかし、重臣らの武田に対する内応の動きにより敢え無く頓挫することとなる。この時内応に応じたと見られる重臣は、瀬名信輝朝比奈政貞三浦義鏡葛山氏元など実に21人にも及んだとされ、そうした重臣らの動きに清見寺(現・静岡市清水区興津)に陣取っていた氏真は身の危険を感じて密かに駿府へと撤退。これが前線の総崩れという事態までも招いたことにより、武田軍は戦わずして勝利を収め、その日のうちに駿府への突入を果たした(第一次薩埵峠の戦い)。


駿府北西の賤機山城(現・静岡市葵区)にて籠城に及ぼうとした氏真であったが、そこにもいち早く武田軍の手が回っていたため叶わず、已む無く朝比奈泰朝の守る掛川城への退去を余儀なくされた。武田軍の駿府突入があまりにも速すぎたがために、氏真の正室である早川殿はこの駿府脱出の折に輿を確保することすらままならず、徒歩にて逃げ延びたとも伝わっている。

こうした事態を前に、北条氏康は武田との同盟の破棄を決し、用意していた援軍をそのまま自身の嫡男である北条氏政に任せて出兵させ、北条軍は興津川以東を押さえて武田軍と対峙した。一方で、氏政の正室として武田より迎えられていた黄梅院(信玄の長女)は、前述の同盟破棄に伴って離縁された後に故国へ送り返されたと長らく語られてきたが、近年では同盟破棄後もそのまま小田原に留め置かれ、氏政の正室として当地で生涯を終えたことが、史料の見直しによって明らかにされている。


徳川の遠江侵攻編集

一方、先に触れた通り信玄と盟約を結んでいた徳川家康も、武田軍の駿河侵攻が始まって間もない12月13日に遠江への侵攻を開始。予てより調略に応じていた井伊谷三人衆(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)の先導もあり、徳川軍は井伊谷を経由して二俣城(現・静岡県浜松市天竜区)、さらに曳間城(現・浜松市中区、後の浜松城)などを攻略、そして氏真らの籠もる掛川城を包囲した。

とはいえ、遠江国内では大沢基胤の守る堀江城、それに大原資良の拠る宇津山城など、今川方の勢力が依然として抵抗を続けており、掛川城にも北条からの援軍が加わるなど徳川軍も容易な平定が叶わぬ状態にあった。

また、掛川城包囲の最中には武田方の秋山虎繁の軍勢が遠江への侵入しており、家康はこれを先の盟約に違反するものとして抗議したため、信玄は家康に謝罪して秋山隊を撤退させている。だが秋山は、前述した「切り取り次第」ということに従っただけなので決して盟約違反ではない。ではなぜ家康は盟約違反を主張したのかというと、信玄が北条軍と交戦中であり、信玄に対して付け込む隙ができたため領土を広げようとしたために秋山隊を妨害したかったからである可能性が高い。また、信玄が家康に謝罪せざるを得なかった理由は、北条軍との交戦中に徳川軍を相手にすることは得策ではないと判断したからである。

これをきっかけに、信玄は家康に対して不信感を抱くようになる。そして後述の通り、家康は信玄との密約に反して今川と単独で講和し、掛川城を無血開城させるに留まらず、武田と敵対関係にあった北条とも同盟を締結するなど、武田・徳川の関係を手切れとするかのような行動に及んでいる。


武田軍の撤兵と今川氏の滅亡編集

年が改まって永禄12年(1569年)に入ってもなお、駿遠における戦闘は継続状態にあり、武田軍は同年1月下旬には薩埵山一帯において北条軍と対陣に及ぶ(第二次薩埵峠の戦い)が、再三に亘る両軍の交戦に勝敗の付かぬうちに、その背後では武田軍にとって深刻な事態が発生していた。


武田軍が、当初の進路であった富士郡方面の攻略に失敗したことは既に述べた通りであるが、実はこの時点でも富士郡方面は、富士氏や井出氏といった今川方の国人が抑えたままとなっており、さらに駿府・山西方面にも今川方の勢力が残存する状態にあった。つまるところ、武田軍は甲斐への帰路を絶たれたばかりか、東西から挟まれる形で今川・北条軍との長期戦を展開する羽目に陥っていたのである。

退路確保のための大宮城再攻略や上野筋の制圧も、そして北条軍撤兵のための外交工作のいずれも失敗に終わった信玄は、已む無くこれ以上の長対陣を断念。そして依然として敵方に押さえられている中道往還や駿州往還といった主要な街道を避け、原昌胤らに密かに切り開かせていた駿遠国境の樽峠(現・静岡市清水区から山梨県南巨摩郡南部町の間)方面の新道を経由し、辛くも帰国の途についたのであった。


この直後の5月6日、予てより進められていた徳川・今川間の交渉の末に両者(と、北条)の和睦と掛川城の開城が実現し、今川氏真は早川殿や一部の重臣らとともに海路北条氏の支配下にあった蒲原城へと落ち延びていった。前出の堀江城や宇津山城などもこの頃までには概ね陥落・開城しており、掛川城開城によって遠江はほぼ徳川の手中に収まったことになる。

蒲原城への脱出後、氏真は北条の家臣になり、同時に氏政の嫡男である国王丸(後の北条氏直)を養子に迎えた上で駿遠の支配権を譲っている。これは即ち、戦国大名としての今川氏の滅亡を意味するものでもあった。


第二次駿河侵攻編集

外交工作と大宮城陥落編集

信玄による最初の駿河侵攻は、今川氏を滅亡に追い込んだとはいえ、武田にとって到底満足の行く結果と言えるものではなかった。信玄は駿河の完全制圧を目論むに当たり、先の戦いで辛酸を嘗めさせられた要因である富士郡方面の平定と駿東に駐留する北条軍、この2つの懸案をまず解消する必要に迫られたのである。


第一次侵攻の終息から二ヶ月ほど後の永禄12年6月、北条氏政は長らく敵対関係にあった上杉輝虎と和睦し、同盟(越相同盟)を締結した。一方で輝虎は、後述の大宮城攻めの後には信玄とも足利義昭室町将軍)や織田信長の仲介によって和睦(甲越和与)を結び、さらに信玄は第一次侵攻時より進めていた佐竹義重との間の甲佐同盟や、里見義堯簗田晴助などとの同盟も強化、武田とこれら関東の諸勢力による北条包囲網での牽制を図った。


信玄は越相同盟締結とほぼ時を同じくして、再度の駿河侵攻を開始。手始めに伊豆・三島方面の焼き討ちで駿東にあった北条軍を牽制するとともに、三度の大宮城攻略に着手している。

信玄自らの指揮により、1ヶ月弱に亘って繰り広げられた攻城戦は、守備側の善戦により武田軍に2000ほどの死傷者を出したものの、北条からの後詰を阻んだこともあって7月初めに開城に追い込んでおり、ここに富士郡を支配下に治めることに成功した。


三増峠の戦い編集

さらに8月下旬には、やはり信玄率いる2万の軍勢が碓氷峠を経由して関東へと侵入、10月に入ると北条氏の本拠である小田原城を包囲に及んでいる。

もっとも、武田軍の狙いとしてはあくまでも挑発を仕掛けるのみであったようで、小田原着陣から一週間足らずで撤兵を開始し、これを受けて北条軍は後詰めとして用意していた北条氏照氏邦の各軍勢を退路である三増峠に先行させ、氏政率いる本隊とで挟撃・殲滅する策に打って出た。


武田軍と、氏照・氏邦勢は10月8日に戦端を開き、緒戦では北条綱成率いる隊が浅利信種らを討死に追い込むなど北条軍優勢に推移していたが、信玄は本隊で相手方の攻撃を凌ぎつつ、別働隊が密かに山中からの奇襲を仕掛けることで、北条軍に打撃を与える狙いがあった。

果たしてその狙い通り、山県昌景率いる別働隊の奇襲と、浅利に代わって本隊左翼の指揮を執った曽根昌世の奮戦などにより、北条軍優勢だった戦況を覆してこれに打撃を与え、最終的な勝利をもぎ取るに至っている。

もっとも、この勝利も荻野(現・神奈川県厚木市)まで迫っていた氏政の本隊が、三増峠での敗戦の報せを受けて進軍を停止したことに因るところが大きく、仮にそのまま北条軍本隊が進軍に及んでいた場合、武田軍は挟撃によって大敗を喫する危険すらあったなど、正しく薄氷の勝利と言えるものであった。


武田氏としては少なからぬ損害を被ったとはいえ、この関東遠征で北条氏の戦力を駿東方面から関東へと引き戻し、今川方への支援を断つことに成功しており、これにより先に挙げた2つの懸案を解消、駿河制圧へ向けて大きく前進する格好となったのである。


第三次駿河侵攻編集

永禄12年11月、三度駿河へと軍勢を向けた信玄は、翌12月には北条方の蒲原城を落城させ、さらに薩埵山に布陣していた北条軍も自落に追い込んだ。武田軍によるこの動きは北条軍に並々ならぬ動揺を与えたと見られている。

この頃、駿府には今川旧臣の岡部正綱が入り、今川方の拠点としてこれを再興していたのだが、武田軍の侵攻はそこにも及び、頑強な抵抗を続けた正綱も最終的に駿府を明け渡すとともに、武田の軍門に下ることとなった。

そのまま駿府に留まった信玄は、翌永禄13年(1570年)より駿河中西部の山西方面の制圧に着手し、ここでは信玄の嫡男・勝頼の活躍により花沢城を攻略、さらに徳一色城(のちの田中城)も手中に収め、後者については大規模な改修も行っている。その後清水において、水軍にまつわる拠点の構築にも当たっていたとされる。


一時帰国の後、信玄は駿東方面の制圧を期して4月半ばに四度目の出兵に及び、同方面における北条軍の重要拠点であった韮山城に攻勢を仕掛けているが、ここでは北条氏規・氏忠ら守将の頑強な抵抗に遭い撃退を余儀なくされた。が、翌元亀2年(1571年)に入ると深沢城が陥落し、さらに興国寺城も防衛に成功こそしたものの武田軍の猛攻に晒されるなど、駿東方面における北条氏の影響力は大きく後退する結果となった。

深沢城陥落後、一旦は収束・小康状態にあった武田と北条の抗争は、同年10月に入って新たな局面を迎えることとなる。北条氏前当主・氏康が病にて世を去り、現当主の氏政はその氏康が主導していた越相同盟の解消と併せて、武田との講和に向けての動きを見せ始めたのである。

信玄にしてもこの頃徳川と上杉が結び、さらに(既に形骸化していたとはいえ)越相同盟により北条も含めた三方面からの包囲で、武田による軍事行動が制約されだしたという事情もあり、この包囲状態を解消する上で北条からの講和の打診は渡りに船と言えるものであった。

かくして同年12月には、早くも甲相同盟が復活するに至った。この同盟復活に伴い、駿河方面においては狩野川・黄瀬川を境界としてその以東の一部が北条領として残され、興国寺城などそれ以外の領域は武田領として引き渡された。この国分によって駿河の大部分が武田の支配下に収まったことにより、3年余りに及んだ駿河侵攻もここにようやく終結を見た。


その後編集

武田氏による駿河侵攻はこうして完遂されたが、侵攻の当初協力関係にあった徳川氏との関係は遂に修復されることはなかった。

家康は元亀元年(1570年)に三河岡崎から、曳馬改め浜松へとその本拠を移しているが、この本拠移転も武田との戦に備えてのものであったとされ、以降の両者は徳川氏が領する格好となった旧今川領国の遠江の支配を巡って、武田・徳川それぞれと同盟関係にあった織田までも巻き込んで対立を深め、やがて信玄最後の軍事行動である「西上作戦」へと発展。

信玄が病を得て西上作戦が頓挫した後も、その遺志は後継者の勝頼へと引き継がれ、武田・徳川(織田)間の抗争は10年余りに亘って継続していくこととなる。


一方滅んだ今川氏の家臣らは、その殆どが武田もしくは徳川の家臣として組み込まれており、既に名前の挙がっている面々を除けば、前者の代表格としては岡部元信伊丹康直らが、後者の代表格としては奥平貞能久野宗能安部元真などといった面々が挙げられる。

そして彼らの主である氏真はというと・・・身を寄せた先の北条氏が武田氏との関係を修復したのに伴い、元亀3年(1573年)以降には浜松へ移って家康の庇護下に入り、後詰として参加した長篠の戦いの直後には遠江の牧野城(諏訪原城)を任されるなど、駿河奪還を期して武田と徳川との抗争や、徳川の外交にも少なからず関与していたことが確認されている。

後の甲州征伐の折にも氏真は徳川軍に従軍し、その際かつての家臣らが再仕官を求めたとされ、武田氏滅亡後には大名として取り立てられる可能性も囁かれていたという。結果的に駿河奪還こそ果たせなかったとはいえ、こうした動きからも窺えるように大名としての滅亡後もしばらくの間なお、駿河や今川の旧臣らに対して氏真も一定の影響力を保持していたものと見られている。


関連タグ編集

戦国時代 駿河

薩埵峠の戦い 三増峠の戦い

甲越和与 甲佐同盟 越相同盟


関連人物編集

武田側編集

武田信玄 足利義昭 織田信長 佐竹義重 里見義堯 足利藤政 簗田晴助

武田勝頼 武田信廉 穴山信君 武田信豊

山県昌景 馬場信春 内藤昌秀

秋山虎繁 真田幸隆 真田信綱 真田昌輝 武藤昌幸 浅利信種 小幡憲重 曽根昌世 加藤景忠 浦野重秀


旧今川家臣で、のちに武田側に転属

瀬名信輝 朝比奈政貞 三浦義鏡 葛山氏元

岡部元信 岡部正綱 伊丹康直 土屋貞綱


今川・北条側編集

今川氏真 北条氏康氏政

庵原忠胤 朝比奈泰朝 荻清誉 大原資良

北条氏照 北条氏邦 北条綱成 北条氏忠 北条綱重

高城蔵人 原胤栄 上田朝直


当初武田側だったが、のちに今川・北条側と和睦

徳川家康


旧今川家臣で、のちに徳川側に転属

井伊谷三人衆近藤康用 鈴木重時 菅沼忠久

山家三方衆奥平貞能 菅沼定盈 他)

安部元真 久野宗能 大沢基胤 鵜殿氏長 松下之綱


武田側とも今川・北条側とも友好関係編集

上杉輝虎謙信

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