松下之綱
まつしたゆきつな
松下氏は元々は近江六角氏の庶流の出であるとされ、比叡山の衆徒であったが遠江にて還俗、鎌倉末期に三河碧海郡松下郷に移住し松下姓を名乗ったのが始まりという。同族には徳川家康の家臣にして、井伊直政の継父としても知られる松下清景と、その弟の安綱(常慶)などがいる。
之綱は天文6年(1537年)に三河に生まれ、飯尾連龍の配下として今川義元に仕えた。父の影響で槍術に優れ、兵法にも通じていたという。一時期、織田信長に仕える以前の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が彼に仕えており、秀吉に字や学問を教えたのは之綱だと言われる。この事から「秀吉の恩人」とも言われる。
その後桶狭間の戦いを経て、寄親である飯尾連龍が今川氏に反旗を翻すと、それに伴っての今川寄りの豪族と反今川の豪族との間での抗争に巻き込まれ、之綱も居城である頭陀寺城を攻め落とされるという憂き目に遭う。
やがて今川氏の滅亡に伴って徳川家康へと仕える事となり、家康と武田勝頼との間で争奪の対象となっていた高天神城に守将の一人として入るも、その高天神城は2ヶ月の籠城戦の末に武田軍によって奪われるに至る。
その際、城主の小笠原信興を始め武田に下る者、大須賀康高らのようにあくまで徳川に残る者とで将兵らが二分される中、之綱はそのいずれにも与せず城を退去している。
そしてその報せを聞きつけ、彼を家臣として召し出したいと申し出る武将があった。それが当時織田家臣として長浜城を任されていた羽柴秀吉、かつての木下藤吉郎その人であった。
こうして新たに秀吉に仕える事となった之綱は、早くも翌天正3年(1575年)の長篠の戦いで前備えとして合戦に参加、その後も本能寺の変や賤ヶ岳の戦いなどを経て、丹波を始めとする3カ国に6000石の知行を得る。小田原征伐後に家康が関東に移されると、その旧領である遠江久野へと加増転封され、1万6000石を得て大名となった。
慶長3年2月30日(1598年4月5日)に死去。享年62。経緯は不明だが、家督は長男の暁綱ではなく次男の重綱が継承し、度重なる転封を経て孫の長綱の代まで大名として存続している。