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松下之綱

まつしたゆきつな

松下之綱とは、中部地方の戦国武将。豊臣秀吉の最初の主君で、秀吉の天下統一後、遠江久野城主に任命され、大名となった。(1537年-1598年)
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概要編集

松下氏は元々は近江六角氏の庶流の出であるとされ、比叡山の衆徒であったが遠江にて還俗、鎌倉末期に三河碧海郡松下郷に移住し松下姓を名乗ったのが始まりという。同族には徳川家康の家臣にして、井伊直政の継父としても知られる松下清景と、その弟の安綱(常慶)などがいる。


之綱は天文6年(1537年)に三河に生まれ、飯尾連龍の配下として今川義元に仕えた。父の影響で槍術に優れ、兵法にも通じていたという。一時期、織田信長に仕える以前の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が彼に仕えており、秀吉に字や学問を教えたのは之綱だと言われる。この事から「秀吉の恩人」とも言われる。

その後桶狭間の戦いを経て、寄親である飯尾連龍が今川氏に反旗を翻すと、それに伴っての今川寄りの豪族と反今川の豪族との間での抗争に巻き込まれ、之綱も居城である頭陀寺城を攻め落とされるという憂き目に遭う。


やがて今川氏の滅亡に伴って徳川家康へと仕える事となり、家康と武田勝頼との間で争奪の対象となっていた高天神城に守将の一人として入るも、その高天神城は2ヶ月の籠城戦の末に武田軍によって奪われるに至る。

その際、城主の小笠原信興を始め武田に下る者、大須賀康高らのようにあくまで徳川に残る者とで将兵らが二分される中、之綱はそのいずれにも与せず城を退去している。


そしてその報せを聞きつけ、彼を家臣として召し出したいと申し出る武将があった。それが当時織田家臣として長浜城を任されていた羽柴秀吉、かつての木下藤吉郎その人であった。

こうして新たに秀吉に仕える事となった之綱は、早くも翌天正3年(1575年)の長篠の戦いで前備えとして合戦に参加、その後も本能寺の変賤ヶ岳の戦いなどを経て、丹波を始めとする3カ国に6000石の知行を得る。小田原征伐後に家康が関東に移されると、その旧領である遠江久野へと加増転封され、1万6000石を得て大名となった。


慶長3年2月30日(1598年4月5日)に死去。享年62。経緯は不明だが、家督は長男の暁綱ではなく次男の重綱が継承し、度重なる転封を経て孫の長綱の代まで大名として存続している。


創作編集

戦国大戦編集

戦国大戦では今川家所属の陽気な武将として登場。なぜか猿回し(猿に芸をさせる大道芸人)。これはおそらくがかつて仕えていたことに因んでいると思われる。能力値は低いものの、敵一体を一時的にコントロール不能にするという計略が強力で、今川家の中ではかなり使用頻度が高い。


ほらほら!難しいことは考えず楽しんで!


信長の忍び外伝 尾張統一記編集

第36話のみの登場。一人称は「ワシ」。


あまりにもサルに似ているからという理由で秀吉に興味を示し、家臣に取り立て、その働きぶりを認めて納戸役に任命し重用する。


しかし、秀吉はこれを妬んだ他の家臣からいじめを受けるようになってしまい、この事に責任を感じ、路銀を与える上で別の家に仕官するように薦める。


秀吉自身はいじめに対し、「嫉妬でござるか?出世して顔まで凛々しくなったからって」と言い返す程の打たれ強さを持っていたが、之綱の心遣いに涙を流して感謝し松下家を去った。


その後天下統一した秀吉により大名として取り立てられたことがナレーションで語られる。


関連タグ編集

戦国時代 戦国武将

今川義元 豊臣秀吉


柳生宗矩 - 之綱の娘おりんの婿に当たる

柳生十兵衛 - おりんの息子なので之綱の外孫である

夏目広次 - 之綱の娘婿の一人

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