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長篠の戦い

ながしののたたかい

長篠の戦いとは、日本の合戦・戦役の一つ。天正3年(1575年)、徳川・織田連合軍と武田軍との間で繰り広げられた、三河長篠城を巡る攻防戦である。
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天正3年5月21日(1575年6月29日)、徳川家康織田信長の連合軍と、奥三河の長篠城(現・愛知県新城市)を攻囲していた武田勝頼率いる軍勢との間で繰り広げられた戦いである。ただし決戦の地は長篠城から離れた設楽ヶ原(現・愛知県新城市)周辺であるため、この名を取って、「長篠・設楽原の戦い」と呼び習わす場合もある(2023年NHK大河ドラマどうする家康』ではこの表記が用いられた)。

永禄年間末期から続いてきた、徳川・織田と武田との駿河・遠江・三河・美濃を巡る抗争の一つであると同時に、後述の西上作戦以来の武田優位に推移してきた戦局をひっくり返し、織田にとってはその後の勢力拡大に弾みをつけ、また徳川にとっても三河の支配を確たるものとしたという、一連の抗争の中でも重要な転換点とも言える合戦である。


合戦までの経緯編集

元亀3年(1572年)、武田信玄は自ら大軍勢を率いて遠江・三河方面への遠征(西上作戦)を敢行、同年12月22日(1573年1月25日)に発生した三方ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる軍勢が武田軍に惨敗を喫し、自領を席巻される窮地に陥った。

が、年が明けて元亀4年(1573年)、予てからの病が悪化した信玄は志半ばで長篠城へと撤退、そして故国への帰還を果たせぬまま没した。その死に際し、信玄は後事を四男で嫡子の武田勝頼に託した。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼は長男の竹丸(のちの武田信勝)が元服・継承するまでの陣代だったと記述されているが平成後期~令和年間の研究でこれは否定されている。


しかし、「三年の間その死を秘すように」との遺言を残した信玄の死は対立する徳川・織田の陣営には程なく知れることとなり、駿遠三や美濃における武田方の優位もここに来て揺るがされることとなる。

信玄の死から程なくして徳川方は、奥三河の国衆で武田方に属していた奥平貞能貞昌(信昌)父子を調略により再度自陣営に取り込むことに成功。菅沼正貞の守る長篠城を陥落させて城域の拡張を図るとともに、貞昌ら奥平勢を新たに守将に置くなど武田方に対する反転攻勢を開始した。これにより、武田方は先の西上作戦で手中に収めたはずの奥三河を奪還されるのみならず、遠江においても獲得したばかりの自領を脅かされる格好となったのである。

無論、勝頼もこれを手をこまねいて見ていた訳ではなく、翌天正2年(1574年)には遠江の要衝・高天神城を攻囲、これを力攻めによって陥落させるに至った(第1次高天神城の戦い)。この高天神城攻めで後詰に失敗した徳川・織田陣営が周辺勢力からの声望を低下させたのを後目に、勝頼はさらなる積極的外征を展開して遠江・三河を脅かし、また美濃においても明知城を陥落させるなど猛威を振るった。

そして翌天正3年(1575年)、勝頼はその矛先を自陣営より離反した奥平氏の籠もる長篠城へと向け、1万5千から2万とも伝わる大軍を率いて出陣するに至った。信玄の死が公にされたのもこの時であったとされる。


他方でこの長篠城攻めについて、同時期に発生した徳川家臣・大岡(大賀)弥四郎の武田方への内通事件と関連した軍事行動であるとの見方も近年提示されており、大岡の手引きで武田軍は当初家康の長男・松平信康の守る岡崎城を目指していたところ、内通の発覚により大岡が鋸挽き刑に処されたことで、矛先を長篠城へ変えざるを得なくなったと指摘されている。


長篠攻城戦編集

合戦の舞台の一つとなった長篠城は、武田氏の領国である甲斐から信濃を経由して、三河吉田(現・愛知県豊橋市)へと抜ける最短ルート上に位置し、天竜川から遠江へと下るルートと二本、併せて東海道まで確保しておけば、家康の居城である浜松城を容易に挟撃できる要衝であり、従って武田方による早期の討伐遠征が予想された。

と同時に、奥平父子も武田より離反した身である以上、降伏しても一族一同誅されるのはほぼ間違いなく、それならばとわずか500名の城兵で強硬な抗戦に及んだのである。城に籠もるのは寡兵とはいえ、周囲は谷川に囲まれた天然の要害、しかも鉄砲や大筒も相応に有していたことも、抗戦に踏み切る要因の一つとなった。


勝頼率いる軍勢が、長篠城を包囲したのは天正3年5月1日のことで、それから2週間近くに亘って奥平勢は頑強な抵抗を繰り広げたが、5月13日には瓢郭や弾正郭が突破・占領されるという事態が発生。とりわけその過程で兵糧庫が焼失したことは、奥平勢にとっては長期の籠城を展開する上で極めて致命的なものであった。

このままでは数日で落城必至という窮地を前に、貞昌は伝令としては相応の身分でないのを承知で、地理に詳しい足軽鳥居強右衛門を遣わし、岡崎城の家康に援軍を要請した。強右衛門は兵と鳴子で重囲下にある長篠城を、翌14日に下水道から寒狭川(現・豊川)へと夜陰に紛れて脱出に成功、そこから65km離れた岡崎まで徒歩にてわずか一日で到着する。

その頃、岡崎でも家康が既に長篠救援部隊として8000の軍勢を招集し終えており、加えて家康からの要請で織田からも、後詰めとして3万の軍勢が集結。これらの軍勢は明日にも長篠へと発とうとしていた。岡崎にてその事実に接した強右衛門は、喜び勇んですぐさま長篠へとって返し(家康と信長は使者として来た強右衛門と引見した際、休息を取って自分達と共に長篠に行くことを薦めたが、強右衛門は謝絶した)来た道を再び徒歩にて一日で踏破。16日早朝には長篠城付近の雁峰山にまで達するが、強右衛門が狼煙を上げる度に上がる歓声を訝しみ、長篠城を包囲する武田軍が警戒を重に敷いた結果、城を目前にして強右衛門は武田軍に捕縛されてしまう。

ここに至って勝頼も徳川・織田による後詰めの存在を知り、一刻も早い長篠城の攻略に迫られた。勝頼は長篠城の自主的な開城を促すべく、「織田・徳川の援軍は来ないと長篠城に伝えれば、命を保証し武田の家臣として厚遇する」という条件を、強右衛門に対し持ちかけた。この破格の条件に対し、強右衛門は一旦はこれに応じたかに見えたがしかし、前述の通り援軍が来ないことを告げるべく長篠城の前へと引き立てられた際、


「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である」


と大音声で叫んだのである。端から自らの死を覚悟していた強右衛門が、最後に果たした決死の務めであった。

強右衛門はその場で(一説には逆さ磔)に処されたものの、自らの命を捨てて援軍の存在を知らせた強右衛門の忠義を無駄にはすまいと、貞昌や長篠城の兵たちは大いに士気を高めることとなり、徳川・織田連合軍の後詰めの到着までの2日間、城を持ち堪えさせる事に成功した。

同時に、敵ながらその忠義天晴れと武田家臣・落合左兵次が強右衛門の磔図を旗印として用いたとされる逸話が残されている。実際にこの旗印は現存しているが、これが強右衛門が逆さ磔の刑に処されたことを示すものかどうかについては、今なお見解が分かれている。


設楽ヶ原着陣と鳶ノ巣山の戦い編集

徳川・織田の連合軍が、長篠城手前の設楽ヶ原にまで到達したのは、強右衛門の最期から遅れること1、2日後の5月18日のことである。

連合軍が着陣した設楽原から、長篠城の展望は全く良くないものの、連吾川と大宮川の二本の河川に加え(当時のこの二本の河川は現在より流れが強く川幅も広かったとされている)、この二本の川に挟まれて水田が水を張っており、梅雨真っ只中のこの時期歩行は困難を極めていた。さらに、川の西方には徒歩では越えようもない急勾配の小山(弾正山)があり、この小山を抜けるには一本しかない狭隘の谷筋を抜ける、もしくはかなりの長距離を迂回して弾正山を巻くかしかないという天険の地であった。

この素晴らしい好条件に目を付けた信長は、設楽ヶ原を決戦の地と定め、自軍の3万の軍勢を途切れ途切れに布陣させ、前出の河川を堀に見立てる形で防御陣を構築。さらに兵に持ち寄らせた丸太を利用して馬防柵を組ませた。これは信長の独創的発想とされることが多いが、敵の攻めに備える野戦築城は当時の常識であり、武田軍も行っている。

他方、本陣に野戦築城を施すということは即ち、防御陣地に籠もって防衛戦を展開することを意味しており、軍勢は防衛拠点を得る代わりに身動きが取れなくなる。武田軍の精強さは前述の通りであり、まともに戦えば如何な連合軍といえど大損害を免れなかった。つまりこの段階でもなお、長篠城の救援は約束されていなかったのである。


長篠の戦い布陣図


ところが、5月19日から20日にかけて、武田軍が大勢切って滝川(現・豊川)を越え、連合軍の布陣する設楽ヶ原への進軍を開始する。詳細は不明ながら、残された書状によれば、勝頼は進撃を止め陣を築いた織田軍を「手をこまねいて臆している」ものと見たらしい。また「信長公記」には前述の通り、「敵から見えぬよう、盆地に兵を配置した」との記述もあることから、武田方は連合軍を少数とみて侮った可能性はありうる。


いずれにせよ、連合軍にとってはこの武田軍の動きは願ってもないことであり、長篠城の包囲網がどうなっているかを知るべく、徳川家臣・酒井忠次を大将とし、織田軍より派遣された金森長近軍監とした威力偵察隊が直ちに編成された。

この偵察隊は21日払暁、4千の兵で南から豊川を渡河し、船着山を迂回して長篠城東に位置する久間砦・中山砦・鳶ヶ巣砦・君ヶ伏床砦を後方より次々と制圧、さらに余勢を駆って有海村に駐留していた武田方の支軍までも敗走せしめ、守将である河窪信実(勝頼の叔父)や三枝昌貞(山県昌景の娘婿)らを悉く討ち取るに至った。実際のところ、兵力数は連合軍の偵察隊と、武田軍の砦守備隊とでほぼ互角であったのだが、これらの砦守備隊は各砦に兵力を分散配置していたため、虱潰しに各個撃破されてしまったのである。

長篠城の包囲陣に総大将の勝頼こそ在陣していなかったものの、この偵察隊の働きによって連合軍は長篠城の包囲を解くのみならず、先に設楽ヶ原に向けて渡河した武田軍の後方を遮断することにも成功し、この段階で最大の目的である長篠城の救援は達成された。残るは、連合軍の正面に陣取る武田軍主力と思しき軍勢との合戦のみとなる。逆に武田軍は、長篠城の陥落どころか自軍を前後から挟み撃ちにされるというきわめて不利な状況に陥ってしまった。


長篠の戦い布陣図2


その主力とされる1万2千の武田軍は、兵を13ほどに分けて西向きに布陣、連合軍とはおよそ2km前後の位置にて相対する格好となった。

一説によれば、勝頼自ら渡河して決戦に臨むという決断に、馬場信春内藤昌秀ら老臣は反対し、これが受け容れられなかったことで敗戦を予感した彼らは水盃を酌み交わしたと伝わるが、実際のところは全く不明で、この度も「甲州兵一人は織田兵五名に匹敵する」を証明し正面突破を試みたのか、後方を遮断され尚も決戦を望んだ勝頼の心持ちは如何なるものであったかは、長篠合戦の最大の謎とされている。


合戦、そして……編集

遠く酒井・金森らの偵察隊が後方を遮断した銃声を耳にしながら、勝頼は21日早朝、主力に交戦を下知する。各隊は一斉に連合軍の籠もる陣地へと襲いかかったが、前述の「甲州兵一人は織田兵五名に匹敵する」とは決して甲州兵を一人、討ち取る為に織田兵の命が五人分、必要であるという意味ではなく、それまでの戦果から「織田兵は甲州兵の5倍の兵力でも決戦を避け逃散する」という意味であり、勝頼にとっては正しく悪夢のように、よりにもよって設楽原の地で織田軍は壊乱せず持ち堪え武田軍と正面からしっかと槍を交えたのである。

陸戦において、武装水準・兵練度・布陣位置が同等であれば、武力衝突が生じた段階で勝利する確率は当然ながら兵力数に勝る軍に傾く。加えて連合軍が設楽ヶ原で野戦築城を施し、防御陣地を構築していたことは既に説明した通りである。こうなると最早鉄砲や甲州兵云々をさておいても、防御陣地に籠もる3万4千もの兵に対し、長篠城包囲の3千を除く1万5千の武田軍が突入すればどうなるか、余りにも無茶に極まる結果が予想された。


戦況としては先ず南端、山県昌景赤備え大久保忠世隊に槍を突ける。続いて北端の馬場信春隊が佐久間信盛隊に攻撃を開始、これを撤退させるとともに要衝・丸山を占拠する。馬場勢の進軍に呼応して、馬場隊脇備えの真田信綱真田昌輝兄弟と土屋昌続の両隊も、退がる佐久間隊を追撃・猛攻に及び、三重の馬防柵の内、この一つを打ち倒して内に兵を入れる。

中央では内藤昌秀隊が山県隊と連動して進軍し、山県隊とその脇備えの小幡信貞隊も、猛反撃を見せる大久保隊によって徐々に中央へと戦場を移し、この三隊は猛攻の末に三重に巡らされた馬防柵の二つを突破、三段目に兵を入れることに成功する。この各隊の動きからも窺えるように、武田軍は翼包囲を狙った陣形を敷き、両翼のいずれかの迂回突破によって勝機を掴むことを狙ったものと見られている。

が、これは一方で両翼の迂回突破よりも前に、中央の部隊が崩れた場合両翼の部隊が取り残され、危機に陥るのと紙一重な戦術でもあった。そして設楽原の決戦では正にこの中央の部隊の息切れが早々に発生、突出して馬防柵内に進軍した兵は連合軍に圧迫され、悉く殲滅されると、戦況もそこから一方的に盛り返されてくる。

この時武田軍の中央を担っていたのは、大将の勝頼や前出の内藤隊の他には叔父の武田信廉や従弟の武田信豊、それに姉婿の穴山信君らの軍勢であり、後年編纂された『甲陽軍鑑』において、高坂昌信(春日虎綱)が長篠での敗戦を受けて行った献策の一つに「典厩(武田信豊)、穴山殿(信君)には腹を切らせるべき」とあることから、信豊・穴山勢の早期撤退もしくは積極攻勢に出なかったことが、中央戦線の崩壊を招いたと見る向きも根強く残されている。

しかし、穴山勢の動きについては実際のところ定かではなく、信豊勢に至っては戦闘に及びこそすれ撤退に及んだとの記述は他の文献からも確認されておらず、中央戦線の崩壊をこの2者の動向に求めることが妥当と言い難い点にも、十分留意すべき必要はある。


結局、8時間にも及んだとされる戦いは昼過ぎには勝敗が決し、武田軍は連合軍からの追撃によって多大な犠牲を生む結果となった。

武田四天王である山県昌景・内藤昌秀は戦闘で討死にし、要衝の丸山に陣取っていた馬場信春も敗戦を悟ると自ら殿を務め、寒狭川(現・豊川)沿い北の猿橋にて敵の進軍を強硬に食い止め、勝頼が渡河の末に撤退したのを確認すると自ら敵軍にその命を差し出し、この首を以て手柄とせよと遺して華々しく戦死を遂げた。彼ら以外にも後述の数多の将兵の命が、長篠・設楽原の地にて散り、その総数は鳶ヶ巣山でのそれも含めて数千から1万余りに及ぶと伝わる。

とはいえ、午前中の攻防戦では前述の通り、武田軍も連合軍が築いた馬防柵を二段まで打ち崩し、合計で6千もの大量の出血を強いたこともまた事実である。これだけの兵力差がありながらワンサイドゲームで終わらなかったのは流石、強兵と名高い甲州兵の意地であった。

後方を遮断される格好となった勝頼は、菅沼定忠の助けもあって一旦武節城(現・愛知県豊田市武節町)に篭もり、その後伊那谷方面からわずか数十の旗本と共に高遠城へと後退。海津城より出迎えの軍勢を率いてきた春日虎綱と合流し、躑躅ヶ崎館へ帰還したのは遅くとも6月2日頃までのこととされる。


かくして長篠の戦いは、


  • 長篠城の防衛成功
  • 武田軍の敗走

という二点において、徳川・織田の連合軍が作戦目標を完遂する形となったのである。


その後編集

織田氏編集

長篠・設楽ヶ原における勝利は、織田信長にとって削られつつあった東濃方面の勢力圏の回復のきっかけともなった。武田の軍事力が大打撃を受けた好機を逃さず、信長は明知城を始めとする遠山十八城を尽く奪還。さらには嫡男の織田信忠率いる軍勢が、孤立した岩村城を包囲の末に奪還せしめ、刑死に追いやられた秋山虎繁に代わって信忠配下の河尻秀隆が入城。以降天正10年(1582年)の甲州征伐まで対武田の最前線を担うこととなる。

一方で東濃が織田の勢力圏として確定を見た後の、織田・武田間の抗争はしばらくの間小康状態が続くこととなり、後に勝頼から和睦が模索されてもいる(甲江和与)。


奥平氏編集

長篠城において決死の守備に当たった奥平貞昌は、家康より古来からの大名刀である「大般若長光」を賜り、さらに予てからの約定通り家康の長女・亀姫を正室に迎え、徳川氏と縁戚になるという破格の待遇に浴することとなった。貞昌が守っていた長篠城は戦での損壊が激しかったため、翌年家康の命により貞昌が新城城(現・愛知県新城市字東入船)に移るのに伴い廃城とされた。

長篠城防衛の恩賞としては、この他に信長からも「信」の偏諱を与えられ奥平信昌と名を改めたとされる逸話が伝わっているが、これについては長篠・設楽原の戦い以前、元亀年間の段階で既に「信昌」の名乗りが用いられている可能性が指摘されており、「信」の偏諱も信長ではなく武田信玄からではないかとの見解も示されている。


鳥居強右衛門家編集

磔にされてまで忠義を貫いた鳥居強右衛門勝商(かつあき)に感銘した信昌は、強右衛門の遺子の信商(のぶあき)に対し父の功に報いて100石を与えるとともに、自身の次男である亀松丸(松平家治)の家臣として付属させており、信商は足軽から一気に直臣にまで出世した。

その信商は松平家治の早逝後再び信昌の元へ戻り、関ヶ原の戦い安国寺恵瓊を捕縛するという大手柄を立てて200石に加増された。最終的には信昌の四男・松平忠明が立てた奥平松平家の家臣となり、子孫も重臣待遇を受けた。そして一族躍進のきっかけとなった「強右衛門」の通称は、信商も含め子孫らにも代々受け継がれたのである。


武田氏編集

前出の山県・内藤・馬場たち宿老以外にも、原昌胤・真田信綱・真田昌輝・甘利信康(虎泰の三男)・土屋昌続・原盛胤(虎胤の次男)・高坂昌澄(昌信の長男)・望月信永(武田信繁の三男)といった、老臣から若手まで多くの武将が討死するなど、長篠・設楽原での敗戦は武田の軍事力に多大な打撃を与えるのみならず、前述の岩村城陥落などによって領国の動揺を招く格好ともなった。

このため勝頼はまず家臣団の再構築に着手し、武田信廉・信豊や仁科盛信など生き残りの親族衆、跡部勝資ら出頭人に加え、土屋昌恒真田昌幸ら若手の将たちも抜擢された。また勝頼は、武田単独では織田に対抗出来ないと考え、外交政策の見直しにも力を傾けており、予てからの北条氏との同盟強化だけでなく、父の代から対立していた上杉謙信とも和睦を成立させ、さらに足利義昭を通じて毛利輝元とも結ぶなど、この一連の動きは三度の信長包囲網の構築にも繋がっていった。


徳川氏編集

織田と同様に、徳川もまた長篠での勝利の余勢を駆って三河より武田の勢力を一掃せしめ、さらには諏訪原城や二俣城の攻略により遠江でも勢力回復を進め、武田方が抑えていた高天神城への締め付けもさらに強めていった。

一方でこの勝利は、大勢力へと躍進した織田との同盟関係の実質的な変化や、徳川家中における派閥対立の表面化などにも結びついていったとされ、ひいては松平信康の自刃の遠因ともなったと指摘する向きもある。


「長篠の戦い」の誤解編集

武田の騎馬隊編集

長篠の戦いは「武田の騎馬隊が鉄砲によって負けた戦」との文脈で語られることがしばしばある。大凡の方々が想像する「騎馬隊」は明治帝国陸軍から編成された騎馬を主として構成された「騎兵」を指すものであろう。

しかし「騎馬隊」のようなものが戦国時代にあったのか、実は全く歴史的に実証されていない。「騎馬武者」がいたことは確かである。しかし「騎馬武者」は基本的に兵の指揮に専念して自らは戦わない指揮官の立場の、謂わば上級武士(将卒)という身分を指すのであって、騎馬は戦闘用に騎乗している訳ではない。ゆえに「騎馬隊」はなかったのではないか、という意見も一時期はあったが、研究は進むにつれやはり「騎馬隊」としか思えない運用があちこちの史料に出てくるので、なかったと考えるのも難しい。


軍馬が当時、どのような運用をされていたのかというと、基本的には先述の通り身分の顕示と、後は人や物資の運搬が基本だと考えられている(が貴重な時代、兵隊全員が乗馬するだけのが無い以上、騎馬武者だけ先行しても徒歩の兵主力が置いてけぼりでは戦にならない訳である)。その他、奇襲、追撃、逃走、輸送、偵察、伝令など長時間、長距離の行動や、兵站の運搬といった場面において主にを使用する。殊に日本在来馬は下に示した絵のように体躯こそ現代馬と比べ一回り二回り小さかったがその分、山間地に適応して強靱な足腰をしており、運搬能力に関してはかなりの力があった(但し明治期に至るまで蹄鉄などの技術がなかったのでわらじを履かせていたため、の蹄が痛みやすく、痛し痒しではあった)。

これら「騎兵」の攻撃はうまく運用すれば効果的であったが、リスクの高い戦術でもあった。江戸時代初期に纏められた雑兵物語には「馬上の敵は、先馬をはじいて後に人を打よし。又時により、乗たるものを打おとし、はなれ馬をして、敵の人数をさわがす事も有べし」と、敵中に騎乗の者がいれば先に馬を射て人を落とすべしと記され、甲州流の軍学テキストである甲陽軍鑑にも「馬を並べて突進したというのは武道を知らぬものの言にて候」とある。要するに騎乗したまま敵の射程に入ると当然ながら、頭一つ高い騎馬武者は目立つので標的になりやすいのである。

 史料を見るに、かの上杉謙信は騎兵での攻撃が非常に巧みであったらしい。「軍神」と称えられた理由の一端はそのあたりにありそうだが、逆にいえば軍神と言われるほどの戦上手でなければ、使いこなすのが難しいとも言えまいか。


陣地防衛や敵方に槍衾などを作られこちらが不利なときには下馬して戦うし、戦というものは先ず長距離兵器(戦国時代初期なら弓矢戦国時代中期から後期なら鉄砲)の打ち合いから始まるので、「騎乗しての戦闘行為」というのは一般に思われているよりも少ないらしいことがわかっている。だからこそ印象に残るのであろうが。


【馬のサイズ一覧】

【図解】馬の分類


鉄砲三段撃ち編集

織田信長が鉄砲を3千丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行し、武田軍はなすすべもなく殲滅させられたというのは有名だが、これも後世に作られた史料が出典であり、事実かどうかは疑わしい。

織田信長が先込め式鉄砲の泣き所である装填時間に目を付けて、これをどうにか短縮できないものかと工夫していたのは事実である。信長公記でも鉄砲交換式、即ち装填手と射手を分けて配置するなど様々な試みが為されている記載が散見する。

が、鎖国で戦争が無くなった日本から目を移し凡そ百年後、ナポレオン戦争が始まった際の各国歩兵は鉄砲誕生から2百年余りが過ぎ去ったにも拘わらず自らで玉と火薬を装填し自らで射撃しているのが実際である。結局、それが最も理に叶っているという事であろう。

加えてこの当時の日本、兵士の武装は基本、官給ではなく兵士の自己持参である。故に果たして誰が鉄砲を持ってくるかというのは実際、戦場で閲兵してみないと判らない事であり、そのような寄せ集め集団で鉄砲を交換しあったりするというのはどだい無茶な話である。無論、鉄砲を優先的に調達して部下に貸し与える隊もあったが、それは直参の部下が予め鉄砲の取扱に長けている事が前提であり、この当時の先込め式鉄砲というものはを引くより遙かに扱いが難しい専門的な武器であった。


但し、長篠の戦いでは実際に(両軍において)多くの鉄砲が投入されたのも事実であり、専業軍人として常に鍛錬を行っていた織田信長馬廻り衆などではそういった工夫があった可能性はある。「装填手」という鉄砲の弾込め専門職も実際に存在したが、先述の通りナポレオン戦争の段階ですら射手と装填手は同一の人間が行っており、信長公記に記される通り「鉄砲を交換して三人一組で一挺以上の鉄砲を運用する」という点を考えてみると、鉄砲二挺に対して三人以上の人員が裂かれるという問題点がある。例えば鉄砲千挺を運用させるには2千名以上の人員が裂かれる計算となる(鉄砲交換式なので射手一人に裂かれる鉄砲の数は二挺以上になる)。つまり圧倒的な火力を得る代わり千挺の鉄砲を用意しながら実際の戦場で火力を発揮するのは半分の5百挺に減少し、かつ人員が千五百名必要になる、という事である。これでは余程、鉄砲と人員に余剰がなければ実践できない戦術でしかない。

こうした交換式の射撃術は、後の朝鮮戦役で立花宗茂が実践した記録もあるが、結局はとりもなおさず「鉄砲は一人に一挺、配備して常時稼働させた方が効率がよい」という事実に回帰したと思われる。時代が下って明治帝国陸軍でも当然ながら、歩兵は横列に三段程、配備し一人一挺の銃配備で斉射しているのが現実なのである。

また、「長篠の戦いで用意された鉄砲の数は3千丁」という点についてもあやふやである。太田牛一の『信長公記』には1000丁余りとある。ただし1000丁「だけ」と受け取るのも正しくない。同じ『信長公記』に佐々成政前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙(原田)直政の5人の奉行に1000丁、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊に500丁を配備したと記されていることから1500丁は用意されており、また他の部隊にも当然鉄砲は配備されていることに加え、織田信長はこの合戦の直前、参陣しない細川藤孝筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じており、細川は100人、筒井は50人を供出している。恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われ、さらに鉄砲の傭兵団として有名な根来衆も参戦している。つまり、太田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1500丁は考えうる最低数の数といえる。また天正9年(1581年)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、1000石取りで軍役60人、そのうち鉄砲5挺を用意すべき旨定めている。織田徳川連合軍の兵力が通説の38000として鉄砲の数を計算すると3167丁となり、また先述のように参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させた史実を考えれば、用意した鉄砲の数は3千丁を優に超える可能性すらある。


このように、「騎馬隊VS鉄砲隊」という旧来の通説は修正を迫られている。

歴史学者の平山優氏は、「内陸で物資に乏しい武田VS交易を支配し豊かな織田」という物量面での対比を強調している。


関連タグ編集

織田信長 徳川家康 武田勝頼

前田利家 酒井忠次 馬場信春

山家三方衆 奥平信昌 長篠城

鳥居強右衛門 大般若長光

三方ヶ原の戦い 高天神城の戦い

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