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長篠の戦い

ながしののたたかい

天正三年五月二十一日(西暦1575年6月29日)、織田信長、徳川家康連合軍と武田勝頼が正面衝突した戦い。
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長篠の戦いとは天正三年五月二十一日(西暦1575年6月29日)、畿内を含めた中央政権を確立しつつある織田信長三河の国主である徳川家康の連合軍が、奥三河で甲斐武田家陣代、武田勝頼に攻囲される長篠城を救援する為に武田軍と正面衝突した戦いである。

長篠の戦いに至る経緯

 元亀三年十二月二十二日(西暦1573年1月25日)、三方ヶ原の戦いにて武田信玄が指揮する武田軍に惨敗した徳川家康武田信玄が没した後も陣代として、自らの子息である武田信勝が元服するまで武田家の指揮を任された武田勝頼に敗戦し続け、自らの支配圏である三河遠江をジワジワと蚕食されていく。織田家も武田家に対しては敗戦続きで、三方ヶ原の戦いでは織田方の援軍である侍大将の一人、平手汎秀が討ち死に。他、美濃信濃の国境である岩村城遠江の要衝として名高い堅城であった高天神城への後詰めはサボタージュし、三方ヶ原の戦い戦後、美濃へと進入してきた馬場信春隊、同じくして武田軍侵攻に備え美濃に築城した明智城等、支城郡を攻撃した山県昌景隊に敗北。織田家は損害を嫌って始めから進軍に消極的でさほどの傷を負ってはいなかったがその分、徳川家の領地は多く武田家へと切り取られ編入されていく結果となった。これに対して徳川家康織田信長に余りの仕打ちであると同盟破棄すらほのめかし、織田信長も近く武田家と正面衝突を余儀なくされる状況に追い込まれる。

 さて一方、武田勝頼武田信玄の生前まで武田家の傘下にあった山家三方衆の一人、奥平貞昌武田信玄の病没を境に徳川家康に主を鞍替えしており、これを征伐する為に一万八千名の兵力を率いて甲斐を出立、奥三河、長篠城を攻めた。長篠城は武田家の甲斐から信濃を経由して三河吉田(現、愛知県豊橋)へと抜ける最短ルート上に位置し、天竜川から遠江へと下るルートと二本、併せて東海道まで確保しておけば徳川家康の居城である浜松城を容易に挟撃できるという要衝であり、従って武田家による早期の討伐遠征が予想された。と同時に奥平貞昌も離反した身である以上、降伏しても一族一同、誅されるのみとあって僅か五百名の城兵で強硬な抗戦を行う。武田勝頼長篠城を包囲したのは天正三年五月一日の事であるが、奥平貞昌は頑強に抵抗しつつも天正三年五月十三日、食料庫を含む瓢郭や弾正郭を突破、占領される。
 こうなっては長期の籠城も危ういと、奥平貞昌は伝令としては相応の身分でないのを承知で地理に詳しい足軽鳥居強右衛門徳川家康に援軍要請に遣わした。鳥居強右衛門は兵と鳴子で重囲下にある長篠城を十四日、下水道から寒狭川(現、豊川)へと夜陰に紛れて脱出に成功し家康の居城である岡崎城に徒歩にて僅か一日で到着する。
 その頃、岡崎城では徳川家康が既に長篠城救援部隊の八千名を招集し終えており、同時に家康からの要請で織田信長の後詰めである軍勢三万名が集結していた。これを喜んだ強右衛門はすぐさま長篠城へととって返し十六日早朝、来た道を再び徒歩にて一日で長篠まで帰参するがしかし、長篠城を包囲する武田軍は鳥居強右衛門が狼煙を上げる度に上がる歓声を訝しんでおり警戒を重に敷いた結果、強右衛門は武田軍に捕縛されてしまう。
 ここに於いて武田勝頼は後詰めの存在を知り、一刻も早い長篠城の攻略に迫られた為、長篠城の自主的な開城を促す目的で「織田、徳川の援軍は来ないと長篠城に伝えれば命の保証は愚か武田家の家臣として厚遇する」という条件を持ち出した。強右衛門はこれに応じたと見せかけ長篠城に向けて、

「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である」

 と大音声で叫び、その場で(一説には逆さ磔)に処され殉死した。
 自らの命を捨てて援軍の存在を知らせた強右衛門の忠義に意気を上げた長篠城の城兵は織田、徳川連合軍の後詰め到着まで城を持ち堪えさせる事に成功するのである。同時に敵ながらその忠義、天晴れと武田家家臣、落合左兵次鳥居強右衛門図を旗印として用いるに至る。この旗印は現存している。

長篠の戦いへ

 同年五月十八日、織田、徳川軍が長篠城手前の設楽ヶ原に到着。設楽ヶ原から長篠城の展望は全く良くないものの、連吾川大宮川の二本の河川に加え(当時のこの二本の河川は現在より流れが強く川幅も広かったとされている)、この二本の川に挟まれて水田が水を張っており梅雨明けで歩行は極めて困難であり、更に川の西方には徒歩では越えようもない急勾配の小山(弾正山)があって、この小山を抜けるには一本しかない狭隘の谷筋を抜けるか、或いはかなりの長距離を迂回して弾正山を巻くかしかないという素晴らしい好条件の天険に目を付け、この場を決戦の地と定め織田軍三万の兵に持ち寄らせた丸太を利用して馬防柵を組ませた。これは信長の独創的発想とされることが多いが、敵の攻めに備える野戦築城は当時の常識であり、武田軍も行っている。

 しかし一方で本陣に野戦築城を施すと云う事は、防御陣地に籠もって防衛戦を行うという意味であり軍勢は防衛拠点を得る変わり身動きが取れなくなる。上記のとおり武田軍は精強であり、まともに戦えば織田軍といえど大損害を免れなかった。この段階で長篠城の救援は約束されていなかった。

長篠の戦い布陣図



 が、五月十九日から二十日にかけて、武田軍が大勢切って滝川(※現、豊川)を越えて織田、徳川連合軍に向けて進軍してくる。詳細は不明ながら、残された書状によれば、勝頼は進撃を止め陣を築いた織田軍を「手をこまねいて臆している」ものと見たらしい。また「信長公記」には「敵から見えぬよう、盆地に兵を配置した」とあるので、武田側が織田軍を小数とみて侮った可能性はありうる。

 いずれにせよ、この動きに対して願ってもない事と、長篠城の包囲網がどうなっているか知る為に織田、徳川軍は即座に威力偵察隊を編成。大将に徳川軍武将、酒井忠次軍監に織田軍武将、金森長近らを宛がい二十一日払暁、兵四千名で南から豊川を渡河し船着山を迂回して長篠城東に位置する久間砦、中山砦、鳶ヶ巣砦、君ヶ伏床砦を次々と制圧し、守将である武田信実らを悉く討ち取る。実際の所、兵力数は徳川軍偵察隊と武田軍砦守備隊とでほぼ互角であったのだが、武田軍の長篠城包囲砦守備隊は各砦に兵力を分散配置していた為、虱潰しに各個撃破されてしまったのである。
 長篠城包囲陣に武田勝頼こそ在陣していなかったものの、織田、徳川連合軍は長篠城の包囲を解きかつ渡河した武田軍の後方を遮断する事に成功し、この段階で最大の目的である長篠城の救援は達成された。かかる懸念は正面に陣取る武田軍主力と思しき軍勢との合戦のみとなる。

長篠の戦い布陣図2



 一方、武田勝頼は二十日のうちに主力を率い自らも滝川(※現、豊川)を渡河、退路を断つ形で織田、徳川連合軍と真正面から相対していた。一説では武田勝頼、自らも渡河して決戦をという決断に馬場信春内藤昌豊ら老臣は反対したというが、実際の所は全く不明で、この度も「甲州兵一人は織田兵五名に匹敵する」を証明し正面突破を試みたのか、後方を遮断され尚も決戦を望んだ武田勝頼の心持ちは如何なるものであったかは長篠合戦の最大の謎とされている。

合戦、そして……

 遠く酒井忠次の軍勢が後方を遮断した銃声を耳にしながら、武田勝頼は主力に交戦を下知する。各隊は一斉に織田軍、徳川軍へと襲いかかったが先述「甲州兵一人は織田兵五名に匹敵する」とは決して甲州兵を一人、討ち取る為に織田兵の命が五人分、必要であるという意味ではなく、それまでの戦果から「織田兵は甲州兵の5倍の兵力でも決戦を避け逃散する」という意味であり、武田勝頼にとっては正しく悪夢のように、よりにもよって設楽ヶ原の地で織田軍は壊乱せず持ち堪え武田軍と正面からしっかと槍を交えたのである。
 陸戦において武装水準、兵練度、布陣位置が同等であれば武力衝突が生じた段階で勝利する確率は当然ながら兵力数に勝る軍に傾く。加えて織田、徳川連合軍は設楽ヶ原で野戦築城を施し防御陣地を構築していた。こうなると鉄砲や甲州兵うんぬんをさておいて、防御陣地に籠もる三万四千名の兵に長篠城包囲の三千名を裂いた一万五千名の武田軍が突入したのは余りにも無茶に極まる結果となった。
 戦況としては先ず南端、山県昌景赤備え大久保忠世隊に槍を突ける。続いて北端の馬場信春隊が佐久間信盛隊に攻撃を開始しこれを撤退させ要衝、丸山を占拠。馬場信春の進軍に呼応して馬場隊脇備えの真田信綱真田昌輝兄弟と土屋昌次の両隊が下がる佐久間隊を追撃、猛攻し、三重の馬防柵の内、この一つを打ち倒して内に兵を入れる。中央では内藤昌豊隊が山県隊と連動して進軍し、山県隊とその脇備えの小幡信貞隊も、猛反撃を見せる大久保隊によって徐々に中央へと戦場を移し、この三隊は猛攻の末に三重に巡らされた馬防柵の二つを突破、三段目に兵を入れる事に成功する。しかしここで遂に武田軍は息切れを起こし、突出して馬防柵内に進軍した兵は織田、徳川軍に圧迫され悉く殲滅されると、戦況もそこから一方的に盛り返されてくる。
 結局、最終的に戦は武田軍の圧倒的敗北に終わり武田四天王である山県昌景内藤昌豊が戦闘で討ち死にし、要衝の丸山を陣取った馬場信春も敗戦を悟り自ら殿を務め寒狭川(現、豊川)沿い北の猿橋にて織田、徳川軍の進軍を強行に食い止め、武田勝頼が渡河の末に撤退したのを確認すると自ら敵軍にその命を差し出し、この首を以て手柄とせよと遺して華々しく戦死する。他にも大身である甘利信康小幡信貞原昌胤原盛胤土屋昌続真田信綱真田昌輝ら多くの侍大将が討ち死にし、従軍した兵も追撃されて一万名以上が戦場に散り、散々たる有様と相成った。
 但し、午前中の攻防戦では先述の通り織田、徳川連合軍が築いた馬防柵を二段まで打ち崩し、織田、徳川連合軍に合計で六千名という大量の出血を敷いた事も付記しておく。これだけの兵力差がありながらワンサイドゲームで終わらなかったのは流石、強兵と名高い甲州兵の意地であった。
 そうして後方を遮断された武田勝頼信濃伊那谷方面から僅か数十の旗本と共に命辛々、二十四日、甲府へと帰参し、長篠の戦いは、

・長篠城の防衛成功。
・武田軍の敗走。

 という二点で織田、徳川連合軍が作戦目標を完遂した。

長篠の戦い戦後

 決死で長篠城を守備した奥平貞昌織田信長から「信」の偏諱を与えられ奥平信昌と名を改め、徳川家康からは古来からの大名刀である大般若長光家康長女、亀姫を正室に迎え徳川家康と縁戚になるという破格の待遇を受ける。
 そしてにされてまで忠義を貫いた鳥居強右衛門は子孫が奥平信昌を祖とする奥平松平家の重臣として重用され代々「強右衛門」の名乗りを許され、関ヶ原の戦いでは安国寺恵瓊を捕縛するという大手柄を立てる事となる。

「長篠の戦い」の誤解

武田の騎馬隊

 よく長篠の戦いは武田の騎馬隊が鉄砲によって負けた戦だといわれることがある。大凡の方々が想像する「騎馬隊」は明治帝国陸軍から編成された騎馬を主として構成された「騎兵」を指すものであろう。
 しかし「騎馬隊」のようなものが戦国時代にあったのか、実は全く歴史的に実証されていない。「騎馬武者」がいたことは確かである。しかし「騎馬武者」は基本的に兵の指揮に専念して自らは戦わない指揮官の立場の、謂わば上級武士(将卒)という身分を指すのであって、騎馬は戦闘用に騎乗している訳ではない。ゆえに「騎馬隊」はなかったのではないか、という意見も一時期はあったが、研究は進むにつれやはり「騎馬隊」としか思えない運用があちこちの史料に出てくるので、なかったと考えるのも難しい。
 軍馬が当時、どのような運用をされていたのかというと、基本的には先述の通り身分の顕示と、後は人や物資の運搬が基本だと考えられている(が貴重な時代、兵隊全員が乗馬するだけのが無い以上、騎馬武者だけ先行しても徒歩の兵主力が置いてけぼりでは戦にならない訳である)。その他、奇襲、追撃、逃走、輸送、偵察、伝令など長時間、長距離の行動や、兵站の運搬といった場面において主にを使用する。殊に日本在来馬は下に示した絵のように体躯こそ現代馬と比べ一回り二回り小さかったがその分、山間地に適応して強靱な足腰をしており、運搬能力に関してはかなりの力があった(但し明治期に至るまで蹄鉄などの技術がなかったのでわらじを履かせていたため、の蹄が痛みやすく、痛し痒しではあった)。
 これら「騎兵」の攻撃はうまく運用すれば効果的であったが、リスクの高い戦術でもあった。江戸時代初期に纏められた雑兵物語には「馬上の敵は、先馬をはじいて後に人を打よし。又時により、乗たるものを打おとし、はなれ馬をして、敵の人数をさわがす事も有べし」と、敵中に騎乗の者がいれば先に馬を射て人を落とすべしと記され、甲州流の軍学テキストである甲陽軍鑑にも「馬を並べて突進したというのは武道を知らぬものの言にて候」とある。要するに騎乗したまま敵の射程に入ると当然ながら、頭一つ高い騎馬武者は目立つので標的になりやすいのである。
 史料を見るに、かの上杉謙信は騎兵での攻撃が非常に巧みであったらしい。「軍神」と称えられた理由の一端はそのあたりにありそうだが、逆にいえば軍神と言われるほどの戦上手でなければ、使いこなすのが難しいとも言えまいか。

 陣地防衛や敵方に槍衾などを作られこちらが不利なときには下馬して戦うし、戦というものは先ず長距離兵器(戦国時代初期なら弓矢戦国時代中期から後期なら鉄砲)の打ち合いから始まるので、「騎乗しての戦闘行為」というのは一般に思われているよりも少ないらしいことがわかっている。だからこそ印象に残るのであろうが。

【馬のサイズ一覧】

【図解】馬の分類




鉄砲三段撃ち

 織田信長が鉄砲を三千丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行し、武田軍は成すすべもなく殲滅させられたというのは有名だが、これも後世に作られた史料が出展であり、事実かどうかは疑わしい。
 織田信長が先込め式鉄砲の泣き所である装填時間に目を付けて、これをどうにか短縮できないものかと工夫していたのは事実である。信長公記でも鉄砲交換式、即ち装填手と射手を分けて配置するなど様々な試みが為されている記載が散見する。
 が、鎖国で戦争が無くなった日本から目を移し凡そ百年後、ナポレオン戦争が始まった際の各国歩兵は鉄砲誕生から二百年余りが過ぎ去ったにも拘わらず自らで玉と火薬を装填し自らで射撃しているのが実際である。結局、それが最も理に叶っているという事であろう。
 加えてこの当時の日本、兵士の武装は基本、官給ではなく兵士の自己持参である。故に果たして誰が鉄砲を持ってくるかというのは実際、戦場で閲兵してみないと判らない事であり、そのような寄せ集め集団で鉄砲を交換しあったりするというのはどだい無茶な話である。無論、鉄砲を優先的に調達して部下に貸し与える隊もあったが、それは直参の部下が予め鉄砲の取扱に長けている事が前提であり、この当時の先込め式鉄砲というものはを引くより遙かに扱いが難しい専門的な武器であった。
 但し、長篠の戦いでは実際に(両軍において)多くの鉄砲が投入されたのも事実であり、専業軍人として常に鍛錬を行っていた織田信長馬廻り衆などではそういった工夫があった可能性はある。「装填手」という鉄砲の弾込め専門職も実際に存在したが、先述の通りナポレオン戦争の段階ですら射手と装填手は同一の人間が行っており、信長公記に記される通り「鉄砲を交換して三人一組で一挺以上の鉄砲を運用する」という点を考えてみると、鉄砲二挺に対して三人以上の人員が裂かれるという問題点がある。例えば鉄砲千挺を運用させるには二千名以上の人員が裂かれる計算となる(鉄砲交換式なので射手一人に裂かれる鉄砲の数は二挺以上になる)。つまり圧倒的な火力を得る代わり千挺の鉄砲を用意しながら実際の戦場で火力を発揮するのは半分の五百挺に減少し、かつ人員が千五百名必要になる、という事である。これでは余程、鉄砲と人員に余剰がなければ実践できない戦術でしかない。
 こうした交換式は秀吉の朝鮮戦役でも記録にあるが、結局はとりもなおさず「鉄砲は一人に一挺、配備して常時稼働させた方が効率がよい」という事実に回帰したと思われる。明治帝国陸軍でも当然ながら、歩兵は横列に三段程、配備し一人一挺の銃配備で斉射しているのが現実なのである。
 また長篠の戦いで用意された鉄砲の数は三千丁というのもあやふやである。太田牛一の『信長公記』には千丁余りとある。ただし千丁「だけ」と受け取るのも正しくない。同じ『信長公記』
佐々成政前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人の奉行に千丁、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊に五百丁を配備したと記されていることから1500丁は用意されており、また他の部隊にも当然鉄砲は配備されていることに加え、織田信長はこの合戦の直前、参陣しない細川藤孝や筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じており、細川は100人、筒井は50人を供出している。恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われ、さらに鉄砲の傭兵団として有名な根来衆も参戦している。つまり、太田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1500丁は考えうる最低数の数といえる。また天正9年(1581年)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、一千石取りで軍役60人、そのうち鉄砲5挺を用意すべき旨定めている。織田徳川連合軍の兵力が通説の38000として鉄砲の数を計算すると3167丁となり、また先述のように参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させた史実を考えれば、用意した鉄砲の数は三千丁を優に超える可能性すらある。

関連リンク

織田信長 徳川家康 武田勝頼
前田利家 酒井忠次 馬場信春
山家三方衆 長篠城
鳥居強右衛門 大般若長光
三方ヶ原の戦い

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