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真田昌輝

さなだまさてる

戦国時代の武将。真田幸隆の次男。通称兵部。兄・信綱と共に長篠で討死した。
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プロフィール編集

生没 1543(天文11)年~1575(天正3)年


真田幸隆の次男。

仮名:徳次郎

官途名:兵部丞、兵部少輔

通称:兵部、兵部少

兄:信綱

弟:昌幸信尹

子:信正


生涯編集

早くから武田信玄に小姓として仕える。戦場においても伝令部隊「百足衆」の一員として活躍し、信玄に「兵部(昌輝)は我が両眼なり」と高く評価される。父・幸隆や兄弟の信綱や昌幸とともに武田二十四将にも数えられる(ただし昌輝と昌幸はカウントされないことがある)。


戦においては信綱の副将として活躍することが多く、永禄12年の三増峠の戦いでは殿を務めて戦功をあげている。


天正3年の長篠の戦いでは、信綱と共に馬場信春の指揮下に入り右翼部隊として奮戦するも兄と共に戦死した。享年33。

子孫編集

子の信正は叔父の昌幸に養育されたが、関ヶ原の合戦後に従兄弟の信繁(幸村)ともども九度山に配流されてしまう。のち、越後高田城主の松平忠輝(徳川家康の六男)に仕え、忠輝改易後は松平忠昌(結城秀康の三男)に仕えた。のち忠昌は改易された長兄・忠直に代わって越前松平家を継ぎ、信正も北ノ庄(福井)へ同行。信正の子孫は代々越前家に仕え信正の家は福井真田家と呼ばれるようになった。


戦国大戦編集

右側が昌輝、左側が信綱。


戦国大戦では、Ver2,0より兄信綱ともに参戦。

武田家所属の1,5コスト武力5、統率5の気合持ち騎馬隊でレアリティはR。

1,5騎馬隊の層は豊富であり、最大のライバルとして同じスペックをした土屋昌続


計略は士気4の「万死の突撃」。

兵力が少ない程、武力と突撃ダメージが上がる。

武力の上昇最低値は2だが、最高9でまでになり、突撃ダメージもかなり上がり、士気以上の効果をもたらす。その反面、計略を生かすならば兵力が少ないタイミングで使用することになる為、乱戦をすることは厳しく、迎撃を食らえば即撤退とやや使うのが難しい計略でもある。



関連タグ編集

真田家 真田幸隆 真田信綱 真田昌幸 真田信尹

武田二十四将

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