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概要

戦国時代の甲斐国の戦国大名である武田信玄に仕えた24人の有力武将を指す言葉。

江戸時代以降、多くの「武田二十四将図」が描かれているが、二十四将の構成メンバーはは様々で信玄も二十四将の一人に含む場合がある。

また二十四将はそれぞれが活躍した時期が異なる、天文17年の上田原の戦いにおいて戦死している甘利虎泰板垣信方と信玄後期から勝頼期に活躍している真田昌幸を同時に描くなど時系的に矛盾が生じる図も見られる為、一般的に数えられる諸将が一同に会した事はない。

その多くは信玄死後の長篠の戦いや1582年の武田氏滅亡で死亡したが、子弟は本能寺の変後に甲斐及び信濃の大半を支配した徳川家康の家臣となった者が多く、江戸時代以降は大名旗本となった。

二十四将(一般的に数えられる武将)

1525年~1561年。

信玄の弟で「武田の副将」と言われたが第四次川中島の戦いで戦死。

1532年~1582年。

信玄の弟で信玄に容姿が似ていた事で影武者を務めたとされる。武田滅亡の際に織田軍によって処刑された。

1539年?~1582年。

信玄の弟。武田滅亡の際に織田軍によって処刑された。

1541年~1582年。

信玄の正室で武田家の一門であり重鎮であったが最後は裏切った。本能寺の変の時に伊賀で討死。

1489年?~1548年。

上田原の戦いで戦死。

1498年~1548年。

上田原の戦いで戦死。

1527年~1575年。

異名は「武田の猛牛」。織田軍の騙し討ちによって処刑された。

1527年~1578年。

武田四天王」の一人。晩年は甲越同盟の締結に貢献した。

1504年?~1565年。

赤備え」の創始者。武田家に対して反乱を起こしたことがある。義信事件の時に切腹。

1529年~1575年。

虎昌の弟(もしくは甥)。「武田四天王」の一人。虎昌の死後、彼の赤備えを引き継いだ。長篠の戦いで戦死。

1522年~1575年。

初名は工藤祐長。「武田四天王」の一人。信繁死後の「武田の副将」と呼ばれる。長篠の戦いで戦死(生存説も存在する)。

1544年~1575年。

初名は金丸平八郎。昌恒の兄。長篠の戦いで戦死。

1515年~1575年。

初名は教来石景政。信房と名乗っていた時期もあった。「武田四天王」の一人。別名は「不死身の鬼美濃」。長篠の戦いで戦死。

1493年?~1561年。

第四次川中島の戦いで戦死。

1487年?~1550年。

砥石崩れにて戦死

1497年~1564年。

別名は「鬼美濃」。

1531年~1575年。

長篠の戦いで戦死。

1537年~1575年。

山県昌景の猶子。長篠の戦いで戦死。

1491年~1561年。

1534年~1582年。

虎盛の子。後述の小幡信貞の許可を貰い、小幡に改姓。

1501年~1563年。

1513年~1574年。

諱は幸綱とも。「攻め弾正」の異名で知られる二十四将きっての謀将。

1537年~1575年。

幸隆の長男。長篠の戦いで戦死。

1539年~1582年。

武田滅亡の直前に裏切ったが、旧主(武田)への不忠を咎められて織田軍によって処刑された。

二十四将に入る事がある武将

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